「京都の生協」No.71 2010年4月発行 今号の目次

認知症になっても笑顔でくらせる社会を
―― 活動の柱は、家族どうしで励まし合うことと、社会をよくすること ――

  「私は誰になっていくの?」――オーストラリア人女性クリスティーン・ブライデンさんのこの問いかけは、認知症の人自身による言葉として世界に大きな衝撃をあたえました。
 以前は「何もわからなくなる」と思われていた認知症ですが、近年、医学的な知見も介護を支える制度も大きく変わっています。その変化をつくりだした力のひとつに、「認知症の人の介護は、家族だけの問題ではない。高齢社会にむけて、社会全体で支える必要がある」と主張する、「(社)認知症の人と家族の会」の活動があります。


京都府生活協同組合連合会 会長理事
小林 智子

(社)認知症の人と家族の会 代表理事
髙見 国生さん

  母が呆けた ―― 介護のはじまり

小林 「(社)認知症の人と家族の会」は、ことし創立30周年ですね。おめでとうございます。

髙見 ありがとうございます(笑)。私たちの会は、「呆け老人をかかえる家族の会」という名前で、1980年に産声をあげました。1月20日が誕生日です。

小林 そのころ、髙見さんご自身はお母さまの介護をなさっていたんですね。

髙見 養母の現役介護者でした。

小林 というと、実のお母さまではなくて……。

髙見 育ての母です。私は4歳10カ月のとき、福井大地震で両親と弟と祖母を亡くして、生き残った姉と私は、京都の伯母2人の家に別々に引き取られました。当時52歳だった養母は、私にしてみれば母親というより祖母に近い存在でしたが、私を慈しみ育ててくれました。その養母が呆けたんです。
 もう失禁がひどくてね、家中がウンコとおしっこだらけでした。当時は「痴呆になったら、何もわからなくなる」と思われていて、お医者さんでも「痴呆は、有効な薬もないし、治らない。だから医療の対象ではない」と考える人が多かったのですが、早川一光先生と三宅貴夫先生は「医療としては何もできないけれども、とにかく介護にあたっている家族の苦しみや悩みを聞こう」ということで、「呆け相談」をやっておられました。
 そして、私たち家族に「現状では医療的に有効な措置はない。ならば、せめて介護をしている人どうしが集まって、励まし合ったらどうか」とよびかけてくださったのです。

  これは家族の問題だ――「呆け老人をかかえる家族の会」の設立

小林 そういえば、以前は「認知症」ではなく「痴呆性老人」とよばれていましたね。はじめて家族の方がたが集まられたときは、いかがでしたか。

髙見 ひとことでいうと、すごい衝撃をうけました。世の中は、痴呆について理解も関心もなく、「アルツハイマー」という言葉も普及していなかったので、家族は「痴呆は恥ずかしい。隠そう」という気持ちがつよくて、家族だけで介護をし、家族だけで苦しんでいたんです。
 私もそのひとりで、「毎日、ウンコやおしっこの始末に追われて、おれは世界一不幸な男や」と思っていました。ところが、家族の集まりに行ってみると、同じように苦しんでいる人がたくさんいるんですね。「ああ、おれはひとりぼっちやない」と思いました。
 もうひとつ衝撃だったのは、「もっとたいへんな人がいる」と知ったことです。うちの母の場合、失禁はあるけれども、徘徊はありません。そういう私が、「うちの父親は徘徊で、家族は警察やご近所に謝ってばかりいる」という話を聞くと、「失禁は臭いけど、徘徊にくらべたら、家の中でウンコの始末してるほうがましや」と思うし、徘徊で苦労している人は失禁の話を聞いて、「失禁のお世話をしたはる人はたいへんやねぇ。それやったら、まだ私のほうがましですわ」ということになるんですね(笑)。
 いずれにせよ、どの人もたいへんな介護をしているのです。ひとりぼっちでいると、「こんなに苦しんでいるのは自分だけや」とか「私がもっとがんばらねば」と考えてしまって、もっとしんどくなってしまう。そのことに気づいた私たちは、「これは介護している家族の問題やから、いつまでもお医者さんによびかけられて、家族がお客さんになってたらあかん。自分たちが会をつくって、自分たちの運動としてやっていこう」と考えて、1980年に「呆け老人をかかえる家族の会」を立ち上げたんです。


  励まし合うことと、社会を変えること――二本柱の活動

小林 会ができて11年後の1991年当時、私は高齢化率の高い上京区に住んでいまして、生協で「上京くらしの助け合いの会」の設立にかかわっていました。ところが、地域では認知症を隠そうという意識がつよくて、他人が家に入ることに強い抵抗感があることを感じました。

髙見 隠す背景には、「認知症になったら何もわからなくなる。もう人間としての価値がない」という、病気にたいする偏見や誤解や差別がありますね。それは障害をもつ人にたいしても同じです。

小林 それで家族が介護をになうのですが、やっぱり限界が来て、後ろめたさを感じながらも施設入所を選ぶしかない。
 ところが、当時、上京区には老人福祉施設が皆無で、遠く離れた施設に入るしかなく、ご本人と家族が離ればなれになってしまうことが多かったんです。
 そういう実態を知るなかで、「上京に老人福祉施設をつくって、老いても安心してくらせるまちにしよう。身近なところに施設があれば、家族もご近所の人もいつも会いに来れて、住みなれたまちでくらしつづけることができる」ということで、地域で運動が起こり、「上京くらしの助け合いの会」をはじめ、いろいろな団体や個人が署名運動に取り組みました。

髙見 身近な地域に施設サービスが十分用意されれば、家族も「しんどくなったら預けられる」ということで、気持ちに余裕ができて、逆に介護にがんばることができます。
 でも、以前は、老人福祉施設といえば、「人里離れたところに建っていて、プライバシーもない大部屋に入れられる」という、まるでうば捨て山のようなイメージでしたし、実態もそれに近いものでした。だから、家族は施設サービスを使うことについても、「自分らは冷たい家族や」「家族として努力が不十分やったんや」と思って、苦しんだんです。

小林 そういう状況のなかで見さんたちは、家族が励まし合うだけでなく、国にたいしても要望書を出すといった活動をされてきました。それが介護の苦労を世に知らしめ、介護保険という制度を生み出す大きな力になったのではないかと思います。

髙見 私たちは、会を結成してから32回も国に要望書を出しつづけています。
 なぜかというと、「いくら家族どうしが励まし合っても、帰宅すれば同じ現実が待っている。もう家族だけで介護するのは限界だ。社会的に介護を支えてほしい」と考えたからです。
 でも、まだ認知症のことが知られておらず、当事者の数もいまより格段に少ないなかで、介護を支える制度を実現するには、家族の苦労を社会に知らせる必要があるし、家族の苦労を伝えるためには「家族の恥」のようなことを話さないといけない。それは家族にとって大きなハードルでした。しかし、会員のみなさんはそれを乗り越えて、介護体験を話したり書いたりしながら、「もっと関心をもってほしい」と訴えてきたんです。
 ですから、私たちの会は現在も、家族どうしが交流し合うことと、それを社会にむけて発信し世の中をよくしていくこと、この二つの柱を活動の中心にすえています。


  くらしが安定してこそ介護もできる――介護保険の功績と問題点

小林 介護保険がスタートし、西陣の狭い路地をデイサービスの送迎車が走り回るようになって、人びとの意識もずいぶん変わったと思います。認知症にたいする偏見やサービス利用への抵抗感はかなり薄れてきました。

髙見 その光景は、まさに隔世の感がありますね。やっぱり「可視化」というのは大事で、毎日、送迎車が行き交う姿を目にしていると、人びとの意識も変わってきます。
 介護保険ができて、通所サービスや施設サービスなど、サービスの総量が増えましたし、入所施設でもユニットケアが導入されたりして、精神的な側面でもサービス利用のハードルが低くなりました。これらはたしかに介護保険制度の功績です。
 ただし、行政の責任があいまいになったという側面は否めないと思います。行政がおこなう措置制度にもとづいて介護サービスの多くが提供されていた時代は、福祉事務所のケースワーカーが介入して支えていましたが、いまの行政は「介護保険を申請して、ケアマネジャーに相談しなさい」と、まるで介護保険の紹介機関のような対応です。
 もうひとつの問題は、利用者負担が増えたことによって、「いつでも、どこでも、だれでも、必要なときに必要なサービスを受けることができる」という介護保険の理念がゆらいでいること。もともと利用料の1割負担も問題でしたが、とくに2006年の改定で食費と住居費が自己負担になり、利用者の費用負担が大幅に増えました。それにくわえて、保険料の値上げや、「介護予防」の名のもとにサービス量が制限されたりして、介護保険の理念が空文化しているという指摘もあるほどです。
 そのうえ、2006年に閣議決定された社会保障費の2200億円削減によって、介護保険だけでなく医療や年金も切り下げられて、人びとのくらしそのものがきびしくなってきました。
 医療費や税負担が増えて、くらしがおびやかされるなかでは、介護もいっそう困難になっています。

小林 介護の現場を支える職員の待遇も劣悪で、離職する人が増えていますね。

髙見 私たちの会は「提言・私たちが期待する介護保険2009年版」のなかで、「介護従事者の生活が保障され、安心して仕事に取り組めるよう待遇改善を継続的に図ること」という提言をしました。そうしないと家族も困るんです。
 また、「高齢社会をよくする女性の会」による、介護従事者の待遇改善をもとめる署名活動に会として取り組んだところ、会員は自分の親が入所している施設以外にも飛び込んで、署名を集めてきました。そういう家族の姿に励まされて離職を思いとどまった介護従事者もいます。
 その意味では、社会福祉を切り捨てる政策は、家族と介護労働者を連帯させたといえますね。


  「地域づくり」や「支え合い」の危うさ――自助や共助には限界がある

小林 こうしてお話をうかがっていると、老後や介護のことを地域で話し合うことの大事さを痛感します。京都生協では、何でも自由に話し合う「おしゃべりパーティー」をやっていますが、介護をやっている人が参加されて、その体験談をみんなで聞いて励ましたという報告もありました。また、医療生協でも、地域の拠点づくりに取り組んでいます。

髙見 みんなが理解し合える地域になれば、認知症にかぎらず、他の困難をもっている人も生きやすくなるのですから、地域づくりはとても大切だと思います。
 ただし、「地域づくり」や「支え合い」は、行政の「まず自助でがんばって、それでだめなら共助。共助もだめなら公助で支えましょう」というやり方に利用されやすい側面ももっているので、注意が必要です。
 というのは、いくら生協が地域づくりに取り組んでも、いくら私たちの会が支え合いに取り組んでも、自助や共助や支え合いだけでは解決できない社会的な問題もあるんですね。だから、生協は社会を変える運動にもつねに取り組んでほしいと思います。
 生協は、まさにくらしそのものでつながっている組織ですから、介護もふくめて、くらしに関係することなら何でもできるし、ほんとうの意味での地域づくりや助け合い、支え合いの活動もできるはずです。おおいに期待しています。

小林 みんなで支え合いながら、同時に、私たちがくらす社会そのものがよくなるように取り組むことが大切ですね。期待にそえるようがんばります。本日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。



写真撮影・有田 知行

プロフィール:髙見国生(たかみくにお TAKAMI KUNIO)

 社団法人 認知症の人と家族の会 代表理事。
 1943(昭和18)年、福井県生まれ。京都市北区在住。元京都府職員。ぼけた母親(養母)を、共働き、育児をしながら約8年間在宅で介護。
 介護中の1980年、「呆け老人をかかえる家族の会」結成に参画。以降、今日まで代表を務める。
「家族どうしの励ましあい助けあいと社会的関心を高め介護の社会化をすすめる」ことを掲げた活動は、全国に広がっている。


(社)認知症の人と家族の会
 1980年京都で結成。全国44都道府県に支部があり、会員は約10,000人。「つどい」「会報」「相談」で苦労を分かち合い、介護への勇気をわかせている。社会へのアピールもおこない、対策の前進を促している。
 近年は、本人の思いを知る活動、若年期認知症の問題にも積極的に取り組んでいる。介護家族でなくても関心のある人なら誰でも入会できる。会費は、年間5,000円。会員には、会報「ぽ~れぽ~れ」と住所地の支部会報が毎月送られる。つどいへの参加や電話相談の利用もできる。
[本部事務局]
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