「京都の生協」No.100 2020年1月発行 今号の目次

カツドウ屋が躍動した歴史を伝えたい。
── 「映画のまち京都」のこれまでとこれから ──

早朝、太秦(うずまさ)に近い三条通りをマイクロバスが通り過ぎ、バスの中にはちょんまげを結った人の姿が見えます。時代劇のロケに向かうバスなのでしょう。こんな時、映画は京都の地場産業なのだと実感します。その京都で映画づくりの一線に立ってこられた中島貞夫監督に、「京都の生協」100号記念ということでお話を伺いました。


京都府生活協同組合連合会 会長理事
(京都府立大学公共政策学部教授)

上掛 利博

映画監督
中島 貞夫さん

  映画のクレジットタイトルにも時代の変化が

上掛 私は京都府生協連の会長理事を引き受けてから、映画館で映画を観る回数が増え、多い年は200本近く観ています。あいさつをする機会が多くなったので、映画の話に触れて、聞いて良かったと思っていただけるあいさつにしたいと考えてのことです。

中島 ほう、それはすごい。いまどきはビデオで観る方が多いから、映画館でそんなに観る方は珍しいですね。ぼくも高校時代は年に110本ぐらい観たことがあります、授業をさぼってね(笑)。

上掛 映画から学べることは多いので、大学の講義の中で学生たちにも薦めています。 エンドロールでたくさんの名前が流れるのを見るたび、映画はこんなにも大勢の人が関わって完成するものなのかと感動を覚えます。

中島 最近は製作に参加した人の名前をもれなく出すようになりましたね。エンドロールが長くなった分、バックに流れる音楽も完全に作るようになりました。昔はクレジットタイトルに名前を出す人を極力削りましたから、せいぜい30人程度でしたし、いまのようにエンディングではなく映画の始めのほうで流したものです。


  東大"ギリ研"から活力に満ちた東映へ

上掛 最近『古代ギリシア 遥かな呼び声にひかれて』(論創社、2019年)を読んで驚きました。ノルウェー大使館などで何度かご一緒したイプセン研究の毛利三彌先生の編で「東京大学ギリシア悲劇研究会」(ギリ研)の歩みをまとめた本です。その中で中島監督が「仲間の信頼を一身に集めて、何ごとにも揺るがず堂々と演出した」と紹介されていました。「北の国から」の倉本聰さんと第一回公演「オイディプス王」の台本を、監督は書かれたそうですね。

中島 倉本とは大学の同期で、半年近く夢中で取り組みました。でも、高邁な気持ちは全然なくて、「誰もやっていないことをやりたい」とか「ギリシア悲劇は得体の知れない怪物だから、とにかく挑戦してみよう」という感じです。本当に公演できるとは思っていなくて、当日まで「たぶん大赤字だから、夏休み返上でアルバイトをしよう」と仲間と話していたのですが、大手の新聞が書いてくれたおかげで、日比谷野外音楽堂での公演は意外に盛況でした。

上掛 ギリシア悲劇の研究から映画の世界に進まれたのはどうしてでしょうか。

中島 それはじつに単純で、大学卒業後の選択肢といえば、1つは研究室に残ること、2つめはシナリオライター、3つめは映画界、この3つだったんです。大学に残るように誘われましたが、自分は現場人間のほうが近いだろうと思ったし、その頃は日本の映画界が全盛期で、年間観客動員数も最も多い頃でしたから、日本のうるさい監督たちもわりあい自由に創れる時代でした。それで「映画もおもしろいんじゃないか」と思ったのが、道を誤った始まりです(笑)。

上掛 当時は松竹・東宝・大映・日活があって、監督が入られた東映は後発でした。

中島 たしかに東映は後発でしたが、その頃になると観客動員数は他社に比べて一番多かったし、京都には内田吐夢、東京には今井正など、本当にうるさい監督が東西にいて、ものすごい活力が感じられました。それに、東宝や松竹は会社ができあがっているというか、妙に収まってしまっている気がして、ぼくは収まっているところはあまり好きではなかったんですね。それで東映を受けたら、受かっちゃったわけです。

その頃は、予算どおりにできた映画は一本もない時代で、製作期日もよく遅れていました。ところが、社長の大川博さんは、戦前は鉄道省の官吏で、五島慶太さんに請われて東急電鉄に入り、そこからまた五島さんの命を受けて東映に来た人ですから、映画のことはまったく知らないし、期限内に予算内で映画をつくりあげるべしという「予算主義」を打ち出したんです。
でも、アニメーションを企業として初めて手がけた方でもあり、赤字を出しながら動画部門を維持し続けたあたりは「ただ者」ではないなと思いましたね。ぼくは、大川さんから「クビ!」と言われたり褒められたりして、「両方したのは、おまえだけだ」と言われました。


  牧野省三・マキノ雅弘との出会い

上掛 かつての東映は、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大、中村錦之助(萬屋錦之介)、大川橋蔵といった歌舞伎役者や、新国劇の大友柳太朗、歌手の美空ひばりなど、スターを起用する「スター主義」をとっていました。

中島 企画部のボードには、予定作品として俳優の名前、たとえば「市川右太衛門物」と書いてあるんですよ(笑)。 まずスターを真ん中に据えてプログラムを組むわけです。

上掛 ところで、「日本映画の父」と呼ばれている牧野省三さんですが、監督はその「孫弟子」にあたられるとか。

中島 なぜ「孫弟子」かというと、ぼくが東映に入社し、正式に助監督として付いたのが「マキノの親父(マキノ雅弘監督)」つまり牧野省三の長男で、彼から省三の話をよく聴かされたんです。

「マキノの親父」は、仕事が終わると毎日のように昔話をしてくれるのですが、なにしろ彼は省三が日本初の劇映画「本能寺合戦」を撮った年に生まれているし、松竹でも東宝でも日活でも働いたことがあるし、役者は全員顔見知りですから、省三の話から始まって、片岡千恵蔵や市川右太衛門の話を「千恵さんがなぁ…」「右太やんが…」と話すわけです。最初は「得体の知れない、不思議なおっさんだな」と思いましたが、そのうちだんだん興味が湧いてきて、自分からしつこく彼の話を聴くようになりました。

よく考えると、あのとき聴いた話は京都の映画史の中枢部分なんですね。なおかつ、父親である省三との本当につらかったやり取りを話す時、涙を流していました。マキノ雅弘ほどの人物に涙を流させるというのは、それだけ父親の存在が残っていたわけで、やっぱり牧野省三は大きな人だったんだなと思います。


  旋風をまきおこした 映画「くノ一忍法」

上掛 日本映画の全盛期は1958年頃で、入場者数が11億人を超えていたのが、皇太子のご成婚パレードを機に白黒テレビが日本中に広まり、さらに1964年の東京オリンピックでカラーテレビが普及、この頃には映画館の入場者数は激減しました。映画界が生き残りをかけて映画の独自性を追求せざるをえない時期に、監督は映画の世界に入られたわけですね。

中島 客が入らなくなることは、もう誰の目にも明らかでした。 ぼく自身は、1年目は無我夢中でしたが、2年目に田坂具隆監督が中村錦之助主演で「親鸞」を撮られる時に付いたのが非常に大きかったですね。映画の作り方の理論的な部分を学べたし、「脚本を書きなさい」と言われて、どんどん書くようになりました。

その頃、テレビ映画が出てきて、30分の連続物が製作されるようになり、ぼくらのような安く書けるシナリオライターが求められていたので、他社のテレビ映画のシナリオをペンネームで書くという実戦的な参加の機会もわりあい早くからありました。
会社としては、観客がどんどん減るのがわかるし、従来のものではだめだから、若手の意見に耳を傾けようという雰囲気が出てきて、とくに当時の撮影所長だった岡田茂さんは、ぼくに「文句ばかり言ってないで、何か新しい企画を出せよ」と迫るわけです。

上掛 それで山田風太郎の「くノ一忍法」を撮ることになったのですね?「明るく楽しい」東映映画が「くノ一忍法」シリーズと任侠物という新路線を打ち出して、週刊誌が「エロと暴力を描く、東大出の監督」というふうに取り上げたそうですが…。

中島 あれはつまり、東映の「健全娯楽」路線に対するアンチテーゼとしてのエロと暴力なんです。でも、本当に新しい路線をやるかどうかの瀬戸際まで追い込まれていたし、やるならイヤイヤやっても仕方がないから、なんとか工夫できないだろうかと考えたのは事実です。

岡田所長から「新しい企画を出せ」と迫られた時、映画にする気は全然なく、半ばジョークで提案したのが「くノ一」でした。所長は頭ごなしに「そんなもん、映画になるか!」と一喝しましたが、その後、彼なりにリサーチを始めたらしく、しばらくして「あれ、おもしろそうじゃないか。とにかくホン(脚本)にしろ」と言い、次には「あんなもん、撮るヤツいないから、おまえ、自分で撮れ」と言うのです。「いや、勘弁してくださいよ」と、かなり抵抗しましたが、どうしても「やれ」と言われて、撮ることになりました。

そうなるとジタバタしてもしようがないから、倉本に「おい、助けてくれ。京都へ10日ほど来てくれ」と電話して、彼はちょうど日活でシナリオを書き始めた頃でしたが、2人で「くノ一」の脚本を完成させたわけです。

上掛 女優さんのキャスティングでもご苦労があったとか。野川由美子さん、中原早苗さん、芳村真理さんはトントンと決まったけど、肝心の色っぽい役が決まらなくて、監督が三島ゆり子さんを口説きに行かれたのですね。その時の様子を三島さんは後年、「監督の話は理屈っぽいばかりで、何言ってんのか、ちっともわかんなかった。でも、汗をびっしょりかいて、あの汗を見たら断れなくなっちゃった」と話しておられたとか。

中島 たぶん、そうだったと思います(笑)。それと、セットをシンプルに様式化しようと試みたのですが、当時の東映の美術の力量では難しく、中途半端になったのが残念でしたね。


  じつは"母"を描きたかった映画「序の舞」

上掛 文芸大作「序の舞」では、日本画家の上村松園(名取裕子)とその母親(岡田茉莉子)の関係を軸に据えるとともに、監督ご自身のお母さまの姿を重ね合わせて、母とはどういうものかを描こうとしたと、「演出メモ」に書かれていますね。
監督のお父さまは戦死され、お母さまが一生懸命働いて子どもを育てて、子どもに教育を受けさせることを重視してくれたので、苦心して学費を捻出されたとありました。

中島 宮尾登美子さんの原作を読むと、お母さんが自分なりのすがるものをつくって生きている姿が強く浮かび上がってきたんですね。ぼくの母も、台所で鍋釜を磨きながら、いろいろ考えていたのだろうと思います。ぼくらの年代はどうしてもマザコンみたいになってしまいますが、学生時代に仲の良かったヤツらは、たいてい父親がいなかったから、友だちの家に遊びに行くと、お母さんが大事にしてくれるんです。うちの母もそうでした。それをいいことに、友だちの家をお互いによく行き来したものです。

上掛 母親というのは、いつの時代も子どもにとって大きな存在だということですね。
松園の美人画は、一筋の髪の毛も丁寧に描かれているので、そこをいかに描くかにもこだわって、スタッフも京都に生まれ育った方たちで固められたとか。

中島 映画は、とくに光が大きな要素になるので、京都の町家の光の射し方によってライトがまったく変わってきます。だから、カメラマンも含めてスタッフは京都生まれの方にお願いして、もちろん美術も、京都出身の優れた方にお願いしました。
「序の舞」の原画は、女性の筆による作品ですから、ライトを当てたら絵の具が剥がれてしまうおそれがあって、模写で再現したのですが、すごくお金がかかって苦労した覚えがあります。


  「京都国際映画祭」ならではの牧野省三特集

上掛 15もの撮影所があった京都は「映画のまち」とされ、太秦界隈は「日本のハリウッド」と呼ばれていました。「京都市民映画祭」(のち京都映画祭)を引き継いだ「京都国際映画祭」(第6回)が2019年10月に開催されました。監督はこの映画祭の創設にも尽力され、昨年は牧野省三特集を組まれましたね。

中島 昨年の初めに「そういえば今年、牧野の90回忌だね」と言ってくれた人がいて、「ああ、そうだった。次は100回忌だと思っていたけど、100回忌には、おれたち、もういないよね。じゃ、90回忌をやろう」ということから、映画祭でも取り上げることにしました。

昨年の映画祭の特集で上映したのは、牧野省三がプロデューサーや監督として総指揮を執り、彼の色が非常に強く出ている、サイレント映画「雄呂血」などの作品で、なおかつ最高齢の弁士に語ってもらったんです。弁士が付くと、あの時代の映画はものすごく生き生きして、若い観客も「こんなにすごいとは思わなかった」とか「言葉も映像も古いけど、なんかジンときた」と感想を述べてくれました。やっぱり牧野は見せ方がうまかったんだなと思います。

それと、牧野がとくに言葉や行動で残したものに、映画の本質を突いた部分がたくさんあります。たとえば小道具類は、すべて本物を集めさせて、その中から使える物は使い、新たに作る必要があれば作りました。つまり、本物指向だったのです。

映画づくりのプロセスについても、「1スジ(脚本)、2ヌケ(撮影技術)、3ドウサ(演技・演出)」とか「いいシナリオからダメな映画はできるが、ダメなシナリオからいい映画はできっこない」という至言を残しました。一番に脚本を、二番目に映画技術を挙げた辺りが、映画の本質を非常に早くからつかんでいたことを示していて、やっぱり牧野省三は天才です。

上掛 父・省三の下で子役として4歳のころから映画の現場に親しんだというマキノ雅弘監督も、若手の育成に力を注がれたのですね。

中島 ぼくが付いてから後半になると、実際にぼくに撮らせようとしました。目をかけてくれて、撮り方を教えようとしたのではないかと思います。それと、自分で撮ったフィルムを編集していると、「このシーンは失敗だな。使えないな」と気づくことがあるんですね。他の監督だったら、そのシーンはすぐに切ってしまうけれども、「マキノの親父」は切らずにそのままぼくに見せて、ぼくが「すみません。そこ、外してください」と言うと、「そうか、わかったか。よし」と言って、切る。つまり、ぼくが自分の目でちゃんと見て判断するように仕向けたのです。そんなふうに育ててくれました。


  京都の映画の歴史を伝えたい

上掛 監督は、京都にお住まいになられて約60年だそうですが、京都のまちをどのようにご覧になっていますか。

中島 いつか東京へ帰ろうという意識で、京都に住む気はまったくなかったけれども気づいたら年月が経っていたという感じですね。現代劇やドキュメンタリーの仕事は東京のほうがやりやすいし、事実、東京と京都の生活が半々という時期もありましたが、いつの間にか京都に足が向くんです。京都は、来ると疲れが少し抜けるような気がして、ぼくにとっての位置付けが東京とは逆になりました。

上掛 これからの京都の映画界や京都国際映画祭については、どのようなことを考えておられますか。

中島 京都の映画の歴史を、ちゃんと形にして残し、伝えていくことが大事だと思っています。そうしないと、みんな忘れてしまいますから、撮影所跡など、京都の映画づくりに関連する歴史的な場所に、ある形として残したり、映画祭というお祭りを通じて伝えることが大切ですね。その意味で、京都国際映画祭は一定の役割を果たしているのではないかと思っています。

上掛 京都は映画にまつわる場所が多くあって、等持院の牧野省三の銅像はじめ、下鴨の鴨川公園には「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助(社会福祉事業にも貢献)の胸像、牧野省三が日本初の映画「本能寺合戦」の撮影をした真如堂には「京都映画誕生の碑」があります。実際の撮影でも、寺社だけでなく歴史的な景観そのものが役立っているでしょうし、伝統工芸の厚みが小道具や結髪など映画に寄与しているのではないでしょうか。

中島 それは本当に実感するところです。たとえば竹光(※)の銀箔にしても、京都に生まれ育った人は当たり前にそこにあるように思われるかもしれませんが、ぼくのように外から来て、そういう技の存在を知っていくと、そのすごさが認識できる。だから、そういうこともぼくらがちゃんと伝えなきゃいけないことだと思っています。
(※)竹光(たけみつ)=竹を削ったものを刀身にして刀のように見せかけたもの。

上掛 私たち協同組合は「生活文化の向上」も活動の大きな柱にしていますので、映画は大切な生活文化のひとつだと考えます(「京都国際学生映画祭」も応援しています)。昨年の4月に監督が脚本も書かれた最新作「多十郎殉愛記」(高良健吾、多部未華子)が公開され、時代劇の魅力を伝えた殺陣でも評判になりました。次の作品にも期待が集まっています。本日は、楽しい時間をありがとうございました。


写真撮影・有田知行


プロフィール:中島貞夫 (なかじま さだお)

映画監督

略歴
1934(昭和9)年、千葉県生まれ、東京大学卒業。1959(昭和34)年、東映へ入社しマキノ雅弘、沢島忠、田坂具隆、今井正ら名監督の下で助監督を務める。1964(昭和39)年、「くノ一忍法」で監督デビュー以降、「893愚連隊」、「日本暗殺秘録」、「あゝ同期の桜」、「大奥㊙物語」、「尼寺㊙物語」、「木枯し紋次郎」、「日本の首領」シリーズ、「犬笛」、「真田幸村の謀略」、「人生劇場」、「序の舞」、「瀬降り物語」、「女帝春日局」、「極道の妻たち」シリーズなど多彩なジャンルの映画を世に送り出す。1987(昭和62)年からは大阪芸術大学教授として後進の育成に努め、2004(平成16)年からは京都国際映画祭の総合プロデューサーとして映画製作・普及に多大な貢献をする。京都市文化功労者、京都府文化功労賞など多くの受賞歴あり。昨年、20年ぶりの本格的時代劇映画「多十郎殉愛記」が話題となる。