「京都の生協」No.59 2006年4月発行 この号の目次・表紙

ばんざい人間!
  ―いのちと平和の尊さをいまこそ…… ―

 早川一光先生は、京都西陣そして美山で「くらしの医療」に取り組んで50年―「わらじ医者」「ボケの先生」として、住民の「生・病・老・呆・死」に立ち会ってきた。いま、先生は、龍安寺にほど近いご自宅に「よろず診療所」を開設。看板もかかげず、白衣も着ず、検査器具もおかずに、茶室で、みずからの全感性・全経験をあげて聴き診る「サードドクター」「癒し屋」として、80歳でこそできる医業に取り組む。
 人を惹き付けてやまない語り口の底流には、「いのち」の尊厳を見つめつづけてきた敬虔と人間賛歌、そして自由と民主主義への徹底した実践哲学がある。あふれるような情熱と精神のみずみずしさは、青年そのものだ。

 
総合人間研究所所長
医師 早川 一光さん
  京都府生活協同組合連合会
会長理事 小林 智子

KBS京都ラジオ番組、もうすぐ20年1000回― 「公開と参加」基本に
小林  先生がパーソナリティをなさっているKBS京都ラジオ「早川一光のばんざい人間」は、放送開始から19年、もうすぐ1000回をむかえる長寿番組ですね。じつは私も、まだ介護保険がスタートする前でしたが、「上京に老人福祉施設をつくろう」という運動をしていたときに、スタジオ出演をしたんですよ。とかく高齢者の問題は暗くなりがちなのに、スタジオには笑いとパワーがみなぎっていたのが印象的でした。
早川  いやぁ、最初はアナウンサーと二人だけで、プロデューサーに指示されながらやっていたんですよ。でも、いいっぱなしで何の反応もない。こりゃアカンと思いまして、「公開しようよ」というたんです。やっぱり、みんなの顔を見ながら話したいですから。
小林  スタジオ参加者は圧倒的に女性が多いですね。
早川

 オババばかりですけどね(笑)。でも、ぼくはね、公開と参加は民主主義の原則やと思っているんですよ。ぼくらが上手にノセて、お客さんを楽しい気分にする。そうするとお客さんが主人公になって、その楽しさはラジオを聴いている人にも伝わる。そうやって長くつづけられたのだと思います。
 それに、公開と参加は、ぼくらがやってきた医療運動の原則そのものなんです。病気の予防も治療も、医者だけがわかっていてもアカン。患者さんに、「つらいけどタバコはやめなアカンのやなあ」と思わせたとき、はじめて「医学」は「医療」になる。つまり、患者を参加させ、主体にしたとき、われわれの行為ははじめて「医療」になるんです。そう思って医者をつづけてきました。


医学生のころ― 「自治」といちばん困っている人のために
小林  先生は「わらじ医者」「ボケの先生」とよばれていらっしゃいますが、もともと外科がご専門だったそうですね。
早川  外科が好きだったのは、悪い部分を切れば、あとはよい部分ばかりだから放っておいても治る、そういう因果関係がはっきりしているからだったんです。
 ぼくが府立医大を卒業したのは1948(昭和23)年。戦後の食糧難の時代でしたから、栄養失調から感染症にかかる人が多くてね、おとなは結核、子どもは赤痢と小児マヒにやられていました。風呂にも入れなかったので、疥癬も多く、おとなも子どもも皮膚はボロボロ。いま途上国の人たちがなめている苦しみと同じですな。そんなときに医者になりました。
小林  たしかにそういう時代だったんでしょうね。じつは私の父も、私が生後10ヵ月のときに結核で亡くなりました。
早川  そうですか。あのころはそういう話が多かったですね。たくさんの犠牲を払ったあげくの敗戦で、国民は栄養失調や結核でどんどん亡くなっていくのに、それまで「天皇陛下のため、お国のため」といっていた権力者たちは、ケロッとして、「みんなが悪かったんだ」といわんばかり。彼らの姿を見ていて、ぼくのマインドコントロールは完全に解けました。「もう絶対に権力者なんか信頼しない」と誓って、突き動かされるように学生運動に参加したんです。  
小林  どんな運動をなさったんですか?
早川  われわれの要求のポイントは3つでした。ひとつは、大学の自治。「みずから治める=自治」は、多くの犠牲を払って手に入れた貴重な財産だったし、ぼくらにとって「自治」という言葉そのものが魅力的だった。それで、「大学は教わるところではなく学生が学びとっていくところだ」というて、教授会の公開、教授の公選制、教科書選定への学生の参加などを要求しました。
 二つ目は授業料値上げ反対。父親が戦死して、学費が払えず退学に追い込まれる友人もいましたから、黙って見ているわけにはいきません。「学費を上げるな。貧富の差なく勉強させろ」と要求したんです。
 三つ目は、入院患者に援助物資を公平にゆきわたらせること。卵や脱脂粉乳など、アメリカからの援助物資がちゃんと患者さんにわたっているかどうかを、学生が点検しました。
 まあ、つまるところ、「自分の勉強の条件は自分で守り、自分たちのくらしは自分たちで守り、いちばん困っている人のために全力をあげる」ということですな。この三原則で、ずっとやってきました。

西陣の人たちが育てた「わらじ医者」― 「自分たちの健康は自分たちで守る」
小林  西陣に、現在の堀川病院の前身の白峰診療所をつくられたのも、そういうお気持ちからだったんですね。
早川  白峰診療所は、ぼくがつくったんとちがいますよ。西陣の人たちがつくったんです。ぼくは彼らの気持ちに押されて行っただけ。
 西陣のみなさんは、帯を1寸織っていくら、3寸織っていくら、という生活で、食事もつくる暇がないから、店屋物をとって、走るように食べていた。生きていくのに必死でした。そういう必死の生活のなかから、「私らの診療所がほしい。自分たちの健康は自分たちで守ろう」という運動が起きて、5円、10円と集めて、白峰診療所をつくられたんです。
 そうして府立病院に医師派遣の要請に来られたとき、ぼくはすぐに「行きます!」といいました。外科医としての仕事がやれなくなることは百も承知。「外科医だから子どもは診ない」というわけにはいかない。でも、外科医である前に医者、医者である前に人間やもの。そうでしょ? だから、ぼくをこういう医者に育てたのは西陣の人たちなんです。  
小林  私の実家も西陣の一角ですが、幼いころは一日中、路地に機の音が響いていました。
早川  そうやろね。西陣の人たちは毎日必死やから、結核が疑われる患者さんに「レントゲン撮るよ」というたとたん、「きょうは急く用があるので、また……」と、いそいそ帰るんです。でも翌日も来ない。そのとき、ぼくは悟りました、「自分から来る患者さんは、放っておいても日赤でも府立でも受診するやろ。来ない患者さんこそ、ぼくが診なきゃならん。そういうお人こそ、ぼくが主治医になるべきや」と。
小林  それで、「わらじ医者」が誕生したんですね。
早川  実際、西陣のまちを歩くと、患者さんのくらしを目の当たりにするんです。路地の奥では、子どもたちが共同井戸のまわりで遊び、共同便所で用を足している。こんなところで伝染病が出たら、みんなに感染してたいへんなことになりますがな。それで、路地に幻灯機を持ち込んで、夜みんなに集まってもろて、伝染病の話をしました。そしたら、まちの人たちは「排水口を表通りまでつけてもらおう」とか「共同便所のくみ取り口には金網を張ろう」と話し合って動きはじめる。そうやって、「自分たちの健康は自分たちで守る」という運動が広がっていったんです。
 ぼくらも、「貧乏な人のつくった診療所は『安かろう悪かろう』ではアカン。こういう診療所で日本の最先端の医療をやることこそ青年医師の仕事や」というので、診察を終えた夜、みんなで集まって燃えるように勉強しましたな。  
小林  住民出資の医療機関をつくって、理事会にも住民代表をきちんと入れられた、というのもすばらしいですね。   
早川  西陣の8つの地域から一人ずつ理事を選んでもらって、病院の管理者側理事は7人でした。だから、理事会を開くと8対7で、かならず管理者側が負けるんですわ(笑)。西陣には土曜も日曜もないから、理事会で「土日も夜間も診療してくれ」と要求される。赤字覚悟でやってみると、やっぱり赤字で、そうすると地域の人たちが「どうしたらええんや」と聞くんですね。ぼくらが「患者さんをふやしてください」というと、地域の人たちが学区内を回って、隠れていた結核患者を見つけ出してくれました。
 そういう患者さんに生活保護を受給してもらい、医療扶助を申請してもらったら、病院はそれで請求できますからね。

先端医療とは「くらしの先っぽ」で診ること― 田んぼのあぜ道での診察から
小林  先生は、「病気を診る」というより「くらしや人生そのものをみる」お医者さんなんですね。
早川  ある講演会で、50歳を過ぎたおばさんが「先生、わてを覚えてる? 2歳のときにハシカから肺炎になって、先生に治してもろたんや」というてきたんです。ぼくはいいました、「いや、おれが助けたんとちがう。隣りの家のおばちゃんが、あんたを背負うて診療所に連れてきたんや。あのおばちゃんが、あんたのいのちを助けたんやで」と。彼女のいのちを救ったのは西陣の地域の人たちやし、そういう人たちの生活のいちばん先っぽで医療をするのも先端医療やと思うんです。なにも最新の医療機器を使うだけが先端医療ではないんですな。
小林  生活のいちばん先っぽといえば、京都府北部の美山町(現・南丹市)では公設民営の美山診療所を開設されて、田んぼのあぜ道でも診察なさったとか。
早川  だってね、患者さんは、ぼくの顔を見たら「痛い、痛い」というくせに、往診にいったら家にいない。「お〜い!」と声をかけたら、畑から出てくるんですよ。つまり、畑で働くことで苦痛を忘れているんやね。
 「ははぁん、これは畑が病気を治しているんやな」と思いました。ぼくらが使う薬は一時的なもので、ほんとうの薬は「ものを生産する喜び」なんです。
小林  だから、患者さんの「くらしの場」を大事になさったんですね。
早川  心が安らぐ自分の家は、最高の病室ですわ。どんな高度な先端医療を施す病院もかないません。だから、「最期は畳の上で死にたい」という人については、その願いをかなえるために全力をあげました。医療者がよかれと思うことが、ほんとうに患者さんのためになるとはかぎらへんからね。

「憲法九条」は「いのち」の問題―どう伝えていくか
小林  先生は、ラジオ番組の放送台本をもとに『ひろがれ、ひろがれ九条ねぎ(祈ぎ)の輪』(かもがわ出版)という本をお出しになり、憲法問題についても積極的に発言なさっていますね。
 「わかりやすい」ということで評判も高いとうかがっています。

かもがわ出版
800円
早川  番組の「びっくり仰天講座」のなかで、「憲法を考えよう」というコーナーを2年半ほどつづけてきたので、それを1冊の本にまとめてみました。
 憲法は、じつはぼくらの生活に深くかかわってるんやけど、「前文がどうの」といいはじめると、むずかしくなって、あんまり聴いてくれへん。そやから、とにかくわかりやすく話すことを心がけました。  
小林  生協でも、最近は若い組合員さんがふえてきて、戦争や憲法というと「むずかしい」と思ってしまう人も少なくありません。でも、差別やいじめの問題は日常的にあるんですね。そういうテーマは関心が高いように思います。   
早川  差別やいじめも、つまりは「いのち」の問題なんやけどね。戦争や憲法の問題と関係のないことではないと思います。
小林  そうなんです。「平和」というのは、たんに「戦争がない状態」ではなくて、「いっさいの飢餓や差別や暴力がない状態」なので、身近な差別やいじめの問題ともつながっています。
 でも、問題は、それをどう伝えていくかですね。 
早川  ぼくも、それが課題やと思います。やっぱり、「いのち」の問題をきちんと考えられる人を育てんとアカンね。
 それができてこなかったから、「憲法も現実に合わせて変えるべきだ」みたいなアホな話も、まことしやかに語られる。理想を現実に合わせて、どないしますねん。まるで反対ですわ。
 現実を、憲法がかかげる理想の高みにもっていかなあきません。そのために営々と努力するのが人間というものでしょう。
小林  差別やいじめ、貧困や戦争の問題を考えるためには、自分とは異なる文化の存在を認めて、そのうえで自分の思いを誠実に伝えたり、相手の考えをちゃんと受けとめたりして、一致点や解決策を見いだす姿勢が必要だと思います。これは相手にたいする想像力と高度なコミュニケーション技術を必要とするので、教育のなかに位置づけなければ、なかなか自然には身につくものではありません。  でも、日本の場合、学校教育の場でも、社会教育の場でも、こうした教育の場はとても少ないと思います。  
早川  うんうん、そのとおり! 「お金で人間の心が買える」なんていう人も出てきた。
 これはいけません。
小林  それで生協の組合員活動では、子どもたちといっしょに学ぶことに力を入れています。たとえば戦争体験を聞く会を開いたり、絵本の読み聞かせをしたり、広島でフィールドワークをしたり、ユニセフの呼びかけに応じてラオスの子どもたちにお年玉募金を送ったり。
 京都府生協連も、大学生協と協力しながら各国の留学生を招いて討論会を開くなど、それぞれが型にはまらない多様な活動をしているんですよ。これは新しい希望だと思います。

いのちが大事にされる世の中をめざして― 「つながり」を1本1本つなぐ仕事
早川  このごろね、「こんな年金で、これから先もくらしていけるやろかと思うと、心配で心配で眠れへん」いうて薬を取りに来るオババも多いんです。そんな話を聴いてると、ぼくら医療者も、生協も、いちばん困っている人の問題を取り上げることが仕事やないか、そこが共通点やないかと思います。
小林  もう少し若い世代だと、子育てで悩んでいたり、みんなが多かれ少なかれ不安感をもっていますね。
早川  そうでしょうなぁ。いまは、一人ひとりがばらばらにされて、本音を話せなくなっているでしょ。だから、生協は、断ち切られそうなつながりを1本1本つなぐような仕事をしてほしい。そして、みんなが猿ダンゴのようにキューッと固まるんです。そうやって団結しないと、だれもが安心してくらせる世の中なんて、できませんわ。そういう仕事こそ生協がやるべきだと思います。
 ぼくら医療者にしても、「いつでも、どこでも、だれでも安心してかかれる医療を」と主張してきたことが、国民皆保険制度などで一般化・制度化されて、いまは日赤でも府立でも「患者本位の医療」をいうようになりました。そしたら、もうぼくらの運動は必要ないのかというと、そうではない。いのちが粗末にされない世の中をめざして運動するところに、ぼくらや生協の意味があるんやないでしょうか。
 その意味で、くらしの助け合いの会が高齢者のための配食サービスをされているのはすばらしいと思います。いちばん困っている人のくらしの先っぽで活動するのがぼくらや生協やし、そういう活動をとおして、世の中全体を「いのちが大事にされる社会」にしていかなアカンと思いますね。
小林  そういうご要望は、医療や福祉分野の方からもうかがっていますし、生協の使命だろうと思っています。いま、医療や介護保険制度をはじめ、社会福祉・社会保障制度が後退していくことへの心配がひろがっています。購買・大学・医療などいろんな分野の生協が連携したり、生協以外の団体と手をつないだら、もっと一人ひとりのくらしに目が届くだろうと思います。きょうは、早川先生からとても大事な宿題をいただきました。   
早川  どうしたら「いのちの大事さ」「憲法九条の大事さ」をわかりやすく伝えられるかという問題もふくめて、おたがいに共通の宿題ですな。これからもときどき、こんな話をしましょうよ。
小林  はい、またぜひお話を聴かせてください。どうもありがとうございました。



早川 一光先生(はやかわ かずてる)先生のプロフィール 
 1924年、愛知県に生まれる。京都府立医科大学卒業。1950年、京都・西陣に設立された住民出資による白峰診療所に着任。のちに堀川病院に発展。院長・理事長を歴任。著書に『わらじ医者京日記』『ボケとつき合う』『大養生のすすめ』『ほな、また来るで』『お?い、元気かぁ?』など多数。1982年NHKドラマ人間模様「とおりゃんせ」は早川先生がモデル。

写真提供:KBS京都ラジオ
◆KBS京都ラジオ 「早川一光のばんざい人間」 ◆ 
  毎週土曜日早朝6時15分から8時20分に放送されている。1987年10月3日からスタートした番組で、スタジオでの公開放送。早朝にもかかわらず、毎回スタジオにはたくさんのリスナーが集まる。「お相手」の北出真紀恵さんとの楽しいやりとりも人気のヒミツ。番組から生まれた「ぼけない音頭」は全国に広がっている。

写真撮影・ 有田知行

〔 ひとつまえにもどる 〕


京都府生活協同組合連合会連合会