「京都の生協」No.62 2007年4月発行 この号の目次・表紙

ふだんのくらしに支えられて描く、花と妖精の世界
  ―美しい絵は、現実をしっかり見つめることから―

 花や妖精、空や野原―。カラーインクで描かれた永田 萠さんの絵は、見る人を夢の世界にいざないます。これほど多くの人びとをひきつけるのはなぜなのか、あの透明感あふれる絵のなかにひそんでいるのは何なのか。「美しいものを描くには現実世界の醜さや悲しみを直視する力が必要です」と萠さんは話されます。その横顔には、早世した、あこがれの人・いわさきちひろにも似た、凛(りん)とした雰囲気と妖精のようなかわいらしさが同居していました。

 
イラストレーター・絵本作家
 永田 萠さん
  京都府生活協同組合連合会
会長理事 小林 智子

このまちで40年、京都にいたから出会えた膜ヲと染料
小林  萠さんといえば、カラーインクで描かれた妖精や花の絵を思い浮かべますが、最近は絹絵という新しいジャンルに挑戦されていますね。先日、絹絵展を拝見しました。
永田  まあ、来てくださったんですか!? ありがとうございます。
小林  絹絵になると、絵のモチーフも少し変わったように思いましたけれど…。
永田  やはり紙には紙の呼びかけがあり、絹には絹の呼びかけや問いかけがあって、モチーフも自然に変化しました。わたしはもともと空飛ぶものが好きで、カラーインクで水彩紙に描くときは妖精や蝶など、わりあい西洋的なものを表現してきましたけれど、絹に染料で描くようになると、妖精ではなく天女を描きたくなったんです。おそらく絹のもつ雰囲気に、和のモチーフがよりしっくりなじむのでしょうね。
小林  そもそもカラーインクで絵を描くことじたいが画期的で、すでに大きな評価もえられて、ご自分の絵の世界を確立なさっているのに、それでもなお、新しいことに挑戦されていることに驚きます。
永田  絹はなかなか扱いにくい素材ですけれど、絹絵をはじめたからこそ和のモチーフと出会うことができました。困難なことと同じぐらい、うれしい発見があるので、いまは夢中で絹絵を描いています。
  それに、絹と染料という素材もまさに京都のものですし、若いころは気づかなかった京都の美しさにも心ひかれるようになりました。このまちで40年以上をすごし、いろいろな体験を重ねたからこそ、めぐりあうべくして絹絵とも出会うことができたのだと思います。そんな出会いをいただけてほんとうに幸せですね。

いわさきちひろの早世がイラストレーター「永田 萠」を誕生させた
小林  お花は、妖精とならんで、萠さんの絵に欠かせないモチーフです。なぜ、お花と妖精を描かれるのですか。
永田  わたしね、絵描きになったその日から、いま描いているものとほとんど同じ絵、つまり花と妖精を描いていたんですよ。そもそも最初から「花と妖精を描く」と決めて、迷わず一歩を踏み出しましたから。たぶん、母が花を育てるのが好きな人で、いつもわたしのまわりに花があったからでしょうね。ですから、ちゃんとした植物学の知識はもちあわせていませんが、花にたいする想いだけは人一倍あるのではないかと思っています。
小林  では、小さなころから花を描く画家になろうと決めていらしたのですか。
永田  いいえ、画家になれるなんて夢にも思っていませんでした。きっかけは、いわさきちひろさんがあまりに早く亡くなられたことです。ちひろさんは、自分の足でしっかり立って、人生を切り開き、深く大きな愛情をもって子どもたちを描かれました。わたしは彼女の絵本を見て育ちましたし、ずっとあこがれていましたから、そのちひろさんがたった55歳で亡くなってしまったと知ったとき、心をゆさぶられたのです。
  そのころ、わたしは25歳で、チョコレート会社でグラフィックデザインの仕事をしていました。それなりのポストにつけていただいて、仕事もおもしろく、夢中で働いていたのですが、ふと気づけば数字による評価をもとめはじめていたんです。子どものころから、数字で評価されることが嫌いで、だからこそデザインを勉強したのに。
  ちひろさんの早すぎる死は、そんなわたしに「自分の人生もあと30年で終わるかもしれない。それなのに、このまますすんでいいの?」と自問自答させ、「軌道修正するならいましかない」と決断させてくれました。それで、ちひろさんが亡くなった翌日すぐに、会社に「今日でやめます」といったんです。
小林  すごい! 即決ですね(笑)。
永田  そう(笑)。無分別もいいところです。当然のことながら、上司に「そりゃ無茶やで」といわれて、結局、いろいろと準備や引き継ぎをして、半年後に退職しましたが、おかげさまでそのあいだにじっくり考えることもできましたし、会社にはほんとうによくしていただいたと思っています。
  でも、あのときはひたすら、「ちひろさんが私たちに贈ってくださった夢の世界を、わたしも描いていきたい。ちひろさんの世界を継承する者のひとりになれたら本望だ」と思っていましたし、その気持ちはいまも変わりません。
小林 では、もし、ちひろさんがあんなに早く亡くならなければ?
永田 たぶん絵描きになっていなかったでしょうね。いまごろチョコレート会社の重役になっていたかもしれません(笑)。

完成を急がず、ヘタを楽しんで、自分の表現を見つけること ―カラーインクとの出会い
小林  花と妖精を描くと決めてスタートされて、最初からイメージどおりに描けましたか。
永田  いえ、よくあれで自信満々だったなあと思います(笑)。じつを申しますと、わたしは絵を、絵描きになるまで1枚も描いていなかったんです。デザインをやっていましたから、目だけは肥えていましたけれど。そんな状態で絵描きになったのですから、われながら無茶ですよね(笑)。
  でも、つくづく思うのですが、すべては熱意ありきです。まず「描きたい!」という熱い気持ちがなければ、絵は描けないし、わたしにはそれしかありませんでした。絵を描いていると、新しい発見の連続で、一日中描いていられるだけでとても幸せだったことをおぼえています。
  いま若い方たちの絵を見ていると、完成を急ぎすぎているように思います。もっとヘタを楽しんで、他人とは違う表現を見つけることにエネルギーを費やせばどうかしらと思いますね。
  わたしは、カラーインクの軽やかな風合いが、ちひろさんの水彩画に通じるところがあって、とても好きで、油絵具はいっさい使いません。でも、カラーインクは、刻々と退色するという弱点があるので、タブローの作品として保存するのはむずかしく、これをメインの絵具として使う画家は少ないのです。わたし自身も、そうしたカラーインクの特性を考えると、わたしの作品は原画ではなく、印刷してはじめて完成するものだと思っています。ですから、画家としては少数派ですが、だからこそ独自性を認めていただけて、京都にいながら仕事をつづけることができたのではないか。自分だけの表現を見つけたことが、そうした幸運につながっているような気がしますね。

現実の世界から逃避したらファンタジーは描けない
小林  ところで、日々のくらしのなかでふと目にしたものが絵のヒントになることはありますか。
永田  たくさんあります。わたしはファンタジーを描いていますけれど、素材になるのは花や野原など、みなさんが現実にごらんになるものが多いし、もともと感動しやすい性格なので、美しいものを見ては、「ああ、なんて美しいのだろう」と心をときめかせています。画家にとって、人と会ったり、旅をしたり、映画や舞台を観たり、音楽を聴いたり、小説を読んだりして、たえず心のときめきをストックしておくことは絶対に必要ですから。
  ただ、一度も砂漠に行かずして砂漠の絵を描けないのと同様に、妖精に蝶の羽根をつけるためには、現実の蝶の羽根や飛び方を観察しなければなりません。ですから、日ごろから身のまわりのいろいろなものをしっかり見ることも大切だと思っています。
小林  現実の世界では、暴力や貧困や戦争など、醜いことがたくさん起こっています。絵の美しい世界との乖離(かいり)を感じることはありませんか。
永田  わたしはファンタジックな絵を描いていますから、夢のなかの住人のようなイメージをもってくださる方もたくさんいらっしゃいますが、本質はとても現実的な人間です。妻であり、母であり、会社のスタッフにとっては社長であり、そうしたさまざまな立場をもつ社会人のひとりです。
  そういう現実の世界から逃避していたら、たぶんファンタジーを生み出すことはできないだろうと思うんです。醜いものや悲しいできごとを直視する力のない人間は、美しいものを美しいと受けとめることもできないと思っていますから、社会のことにはとても関心がありますし、この世で起こっていることをしっかり見つめなければと思っています。実際、ふだんのわたしは、新聞を広げては、しょっちゅう怒っているんですよ。
  それにね、わたしには「永田 萠」のほかに、親がつけてくれた名前と夫の姓とがひとつになった戸籍上の名前があるんです。ボランティアにしろ社会活動にしろ、絵描きの「永田 萠」がすると誤解を生んだり、名前が一人歩きすることもありますが、この名前のわたしなら、そういうこともあたり前にできます。ときには息抜きをさせてくれたり、ちがう視線でものごとを見るように示唆もしてくれます。
  だから、結婚して、別の名前が私にぴったりよりそったとき、「結婚してよかったなあ」としみじみ思いました。
  この現実世界の、もうひとつの名前がささえてくれているからこそ、「永田 萠」もしっかり絵が描けるのだと思いますし、その思いは年々強くなりますね。

生協は子育ての強力な助っ人。 くらしと信頼を守る組織として、これからもずっと
小林  生協とは長くつきあってくださっているそうですね。
永田  生協にはにがい思い出があるんですよ(笑)。絵描きになって、小さな会社をつくって、まだわたしも含めてスタッフ全員が独身だったころ、事務所に「生協の共同購入を始めませんか」というチラシが配られたんですね。スタッフのひとりがそれを見て、「萠さん、これは便利ですよ。やりましょう!」といいだして、共同購入を始めたまではよかったのですが、なにせ私たちは夜中まで仕事をして、会社でそのままざこ寝するような生活ですから、朝の荷受けなんて出られるわけがない。それでとうとう担当者の方から、「いったん脱退されてはいかがでしょうか」という丁重なお手紙をいただいてしまいました(笑)。
  それから結婚して、あらためて組合員になったのですが、子育てをしていたころは、まちなかに住んでいまして、近くにお店も少なかったものですから、生協にずいぶんお世話になりました。きちんとくらすには、新鮮で安心な材料を買って、ちゃんと自分の手で調理することが大事ですし、子どももそういう食べ物で育てたいと思っていましたから、仕事の合間に生協の店舗に飛んで行って、いそいそと買い物をしていましたね。幸いなことに、夫も自宅で仕事をしておりましたので、息子の体の大部分は私たちの料理でつくったと思っています(笑)。
 それだけに、信頼できない食品提供者がいくつも出てくるなんて、ほんとうにショックです。生産者の方がたはけっして害のあるものをつくろうとは思ってらっしゃらないはずだから、安全なものを安心な形で届けてほしいと思いますね。
小林  農産物や食品が世界的な規模で動くようになって、消費と生産・加工の現場が遠く離れ、消費者と生産者の顔がお互いに見えにくくなっているんですね。そうなると利益のみが追求されて、ごまかしや不正が起きやすくなるので、食べる人とつくる人の距離を縮めることが大事だと思います。生協でも、あらゆる機会をつくっては、交流に取り組んでいるんですよ。
永田  そういう努力をなさっていることは、生協の商品を見るとよくわかります。つくる人と食べる人は本来、敵対するものではありませんものね。
  わたしが生協の力を感じたのは、阪神・淡路大震災のときです。あのとき、「女性の力は大きいなあ。生活やくらしを理屈抜きで知っている人たちの組織は強いなあ」と、つくづく思いました。もちろん男性のメンバーも多いと思いますが、コープこうべの女性のリーダーの活躍はほんとうにめざましいものがありましたから。これからも、くらしと信頼を守る組織として、よろしくお願いしたいと思います。
小林 そうおっしゃっていただけると、たいへん励みになります。ありがとうございました。

 
小林 これからはおばあさんの妖精も描いてくださいませんか(笑)。
永田 ええ、ぜひ(笑)。じつはね、私も20年後はかわいい妖精みたいなおばあちゃんになろうと決めていて、もう着る服も考えているんですよ(笑)。


永田萠さんのプロフィール

兵庫県加西市生まれ。 グラフィックデザインの仕事に携わった後、1975年にイラストレーターとして独立。「カラーインクの魔術師」と呼ばれる類いまれな色彩感覚と、花と妖精をテーマにした夢あふれる作風は、国内外を問わず広く親しまれている。

1987年に『花待月に』(偕成社)でボローニャ国際児童図書展グラフィック賞を受賞。絵本、画集、エッセイなどこれまでに約130冊余を出版。 現在、画業30年記念「永田萠の世界展〜夢がうまれるその時に〜」で巡回展中。

2004年4月より京都新聞もくよう版「KOTOKOTO」でイラストとエッセイを好評連載中。 「ギャラリー妖精村」を主宰。京都市在住。

公式ホームページ http://www.yohseimura.co.jp

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ギャラリー妖精村
〒604-8182
京都市中京区堺町通三条上ル
フォルム洛中庵1F
TEL: 075(256)5033

AM10:00〜PM6:00
月曜日休廊(祝日の場合は開廊)

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写真撮影・ 有田知行

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