「京都の生協」No.68 2009年4月発行 この号の目次・表紙

水晶の歌声とバンドゥーラの可憐な響き
―悲劇を乗り越える希望を音楽で伝えたい

 「悲劇を忘れないでください。同じあやまちをくりかえさないでください。そう願って、私は歌を歌っています」― チェルノブイリ原発事故を体験したナターシャ・グジーさんはそう語ります。

  二度と取り戻せない「ふるさと」でのくらしや、歌をとおして伝えたいことについて、「平和をつくろう〜講演と音楽のつどい〜」(2月7日、池坊学園こころホール。主催:京都生活協同組合・京都府生活協同組合連合会)のステージを終えたばかりのナターシャさんにお聞きしました。


 
歌手・バンドゥーラ奏者
ナターシャ・グジーさん
  京都府生活協同組合連合会
会長理事 小林 智子

大好きな街、京都で歌う
小林  さきほどはすばらしい演奏をどうもありがとうございました。私のまわりでも目をうるませながら聴き入る人の姿が目立ちました。民族楽器のバンドゥーラの音色にも心をゆさぶられました。
ナターシャ  みなさまがたの気持ちは、私にも伝わってきました。そんなふうに聴いてくださって、ほんとうにうれしく思います。
小林  きょうは日本の歌やウクライナの歌など、いろいろな曲を聴かせていただきましたが、どれも日本の歌のようであり、また外国の歌のようでもあり、大切な人やふるさとへの想いは、どの国の人の心にも共通するものだなと思いました。
  ステージに立つ前はコンディションをととのえるのがたいへんだと思いますが、きょうはいかがでしたか。
ナターシャ  とても楽しく歌えました。
  たぶん2月に京都に来たのは初めてではないかと思いますが、私はこの街が大好きなんです。初めてこの季節に、大好きな京都に来ることができて、そのうえ、とてもあたたかいみなさまがたの前で歌えて、逆に私のほうがみなさまがたから元気をもらうことができました(笑)。


ウクライナの民族楽器“バンドゥーラ”の音色に魅せられて
小林  バンドゥーラは、ウクライナの民族楽器だそうですが、私は見るのも聴くのも初めてでした。弦楽器なのに、音色は鍵盤楽器のようで、どことなく哀愁を感じる響きです。
ナターシャ  この楽器は63弦もあって、音色はチェンバロに似ています。形は琵琶にも似ていますね。
 私は8歳のころに、この楽器の音色に夢中になって、ウクライナの音楽学校に入りました。
小林  こんな美しい音色ですものね。私もバンドゥーラを使った曲をこれからもっとたくさん聴いてみたいと思います。ナターシャさんの歌声も、透明感があって、とてもすばらしいものでした。歌も、音楽学校で勉強なさったのですか。
ナターシャ  声楽は、日本に来てから本格的に先生のレッスンをうけて勉強しました。でも、両親がとても歌が好きで、いつも聴かせてくれましたし、夜になると家族で集まっては歌っていましたから、子どものころから自然に好きになったんです。もともと歌うことが好きですから、どんなに歌ってもあきるということがありません。
小林  ナターシャさんは、今年で来日10周年をむかえられ、日本語もとてもおじょうずですが、もともと音楽活動をなさるために日本にいらしたのですか。 
ナターシャ  日本の救援団体が救援コンサートを企画してくださって、民族音楽団の一員として96年と98年に二度来日したのが最初です。
  それで2000年から、日本語を学びながら日本での本格的な活動をはじめました。


「ふるさと」の歌に想いをのせて ―美しい森、白い家、大切な人たちの笑顔
小林  ナターシャさんは、いまもチェルノブイリ原発事故で被曝した子どもたちのために、救援活動をつづけていらっしゃるとお聞きしていますが、ナターシャさんごじしんも6歳のときに被曝なさったんですね。
ナターシャ  ええ、私の家は発電所から3.5キロしか離れてなくて、お父さんはチェルノブイリ原発で働いていました。
小林  きょうの公演では、たくさんの曲を聴かせていただきましたが、アンコールの最後に、参加のみなさんといっしょに「ふるさと」を歌ってくださり、とても感動しました。
  きっとナターシャさんはなつかしいお家や森の景色、ご家族やお友だちの笑顔を思い浮かべてらっしゃるんだろうなと思いました。
ナターシャ  そうですね。私のふるさとはもう二度と取り戻せなくなってしまいました。私が住んでいた家も、毎日のように遊んだ森も、危険だということで土の下に埋められてしまって、もとの緑豊かな土地に戻るには何百年もかかるといわれています。
小林  事故の後、チェルノブイリ原発に勤められていたお父さんをふくめ、ご家族でよその街に避難され、転々とした生活を送られたとうかがいました。
ナターシャ  避難といっても、二度と戻れなくなるとは夢にも思っていなかったんです。事故の翌日は、何も知らされなかったので、私たちはいつもどおりにすごしました。子どもたちは学校に行き、小さな子どもたちはお母さんといっしょに一日中、外ですごして、そのあいだにたくさんの放射能をあびてしまいました。
  そして、その次の日、突然、「念のために3日間だけ、何も持たずに避難してください」といわれたんです。ですから、私たちは何も持たずに家を出て、おばあさんの住む街に行きました。あれから20年、ふるさとには一度も帰っていません。
  でも、私の胸のなかにはいつも、子どものころにくらしていた小さな家や、そこに咲いていた花のかわいらしさや、遊び場だった美しい森の風景、両親やきょうだいと歌ったり話したりした楽しい思い出が残っています。


「その悲劇を忘れないで、同じあやまちをくりかえさないで」
小林  コンサートの途中でチェルノブイリ原発事故の話をしてくださって、二度とあのような悲惨な出来事を起こさないでほしいというナターシャさんのメッセージがとてもつよく伝わってきました。
  とくに日本は、原爆の被害を世界で初めてうけた国で、いま原爆症の認定を求める裁判が各地で起こされています。原爆が投下されてからほぼ65年たちますが、いまも後遺症に苦しんでいる人や、子どもや孫に影響が出るのではないかと恐れている人がたくさんいます。
  原爆が投下された当時、直接、放射能をあびた人は、すでに70歳以上の方が大半ですが、「自分が生きているあいだになんとかして被爆体験を引き継ぎたい。もう二度と核兵器を使わせてはいけない」という思いで、裁判を起こし、一生懸命にご自分の体験を語ってくださっています。「もう二度と」というのは、ナターシャさんのお気持ちと重なるのではないでしょうか。
ナターシャ  私も広島や長崎に行って、そのことをつよく感じました。原爆による被害も、チェルノブイリの悲劇も、まだ終わっていないし、もう二度とくりかえしてはいけないと思います。
  チェルノブイリの原発事故から20年以上たって、あの当時、子どもだった私たちの世代が、いまは結婚して、子どもを産む年齢になっていますが、赤ちゃんたちの健康にもいろいろな異常があらわれています。
小林  きょうは、ナターシャさんが歌に込められているお気持ちについても、多くのお話をいただきました。「その悲劇を忘れないで、同じあやまちをくりかえさないで」という言葉が、痛いほどつよく胸に響きました。
ナターシャ  私は、チェルノブイリ原発事故の体験者のひとりとして、そのことを伝えていくのが自分の使命だと思っています。やはり私は歌手ですから、歌をとおして、その想いがみなさんに届くよう、心をこめて歌いつづけていきたいと思います。
小林  でも、ナターシャさんの歌には、「つらいことや悲しいことは多いけれども、その向こうには希望がある。つらく悲しいことを、そのままにしておかないで、次の生きる力にしていこう」という力強いメッセージがこめられていることを感じます。
ナターシャ  それを感じてくださると、うれしいです。ウクライナの人たちは、チェルノブイリの悲劇を乗り越えようと、希望をもちながら、懸命に生きています。そういう姿も、音楽をとおして伝えていけたらいいなと思っています。


助け合い、支え合う ―国の違いをこえて
小林  生活協同組合は「平和とよりよいくらし」を合言葉に活動しています。私は、これは生協の組合員だけでなく、すべての人びとに共通する願いだと思っています。チェルノブイリ原発事故で被害をうけた人たちにたいして、日本の私たちができる支援とはいったいどんなことでしょうか。
ナターシャ  やはり経済的なご支援がいちばんうれしいですね。ウクライナは、緑豊かな美しい国ですが、経済的な面ではけっして豊かではありません。貧しい人たちもたくさんいます。とくに被曝した人たちは、何度も手術をうけたり、薬を一生飲みつづけたりしなければいけないし、さらにその子どもたちも病気をかかえていることが少なくないので、とてもたいへんです。
  それと、ウクライナの人たちにとっては、遠く離れた日本の国に、自分たちのことを心配してくれている人がたくさんいるということが、とても大きな希望なんですね。自分たちは忘れられていない、けっして孤立していないという気持ちは、お金では買えない大切な支えになっていると思います。
小林  日本の人もウクライナの人も、国は違っても、同じ苦しみをかかえた者として、お互いに助け合い、支え合っていきたいですね。
  きょう、お越しいただいた方からは「平和なればこそのすばらしいひとときでした」「人間愛をつよく感じました」「心にしみ入る歌声に涙が自然とこぼれました」などの声をいただきました。
  どうかこれからもお元気で、美しい音楽と力強いメッセージを伝えてくださることを願っています。コンサートでお疲れのところ、どうもありがとうございました。

チェルノブイリ原発事故
  ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、1986年4月26日、大きな爆発事故が起こり、原子炉が破壊されました。このとき炉内から放出された大量の放射能は、広い範囲に降り注ぎ、とくにウクライナ共和国やベラルーシ共和国は高濃度の放射能に汚染されました。この「死の灰」は、原発労働者の命を奪っただけでなく、甲状腺ガンや白血病などの健康被害というかたちで、いまもなお多くの人びとを苦しめています。発電所周辺の住民は強制避難となったため、家族離散の悲劇も起こりました。



◆ナターシャ・グジーさんのプロフィール◆

 ウクライナ生まれ。ナターシャ6歳のとき、1986年4月26日未明に父親が勤務していたチェルノブイリ原発で爆発事故が発生し、原発からわずか3.5キロで被曝した。その後、避難生活で各地を転々とし、1年後にキエフ市に移住する。ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、8歳の頃より音楽学校で専門課程に学ぶ。

  1996年・98年救援団体の招きで民族音楽団のメンバーとして二度来日し、全国で救援公演を行なう。2000年より日本語学校で学びながら日本での本格的な音楽活動を開始。その美しく透明な水晶の歌声と哀愁を帯びたバンドゥーラの可憐な響きは、日本で多くの人びとを魅了している。

  2005年7月、ウクライナ大統領訪日の際、首相官邸での夕食会に招待され、演奏を披露。コンサート、ライブ活動にくわえ、音楽教室、学校での国際理解教室やテレビ・ラジオなど多方面で活躍しており、その活動は高校教科書にも取り上げられている。

ホームページ http://www.office-zirka.com/

写真撮影・ 有田知行

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京都府生活協同組合連合会連合会