「京都の生協」No.87 2015年8月発行 今号の目次

市民には、戦争を防ぎ、平和をつくりだす責任がある
──いまを「戦前」にしないために必要なこととは?──

 戦後70年の夏――。おりしも安全保障法制関連法案の国会審議がおこなわれ、衆議院において強行可決されました。日本の安全保障は大きく変えられようとしています。「平和」とはどういう状態なのか、安倍晋三首相のいう「積極的平和主義」とは異なる本来の「積極的平和」とは何か、その実現のために私たちは何をしなければいけないのか、協同組合にはどんな課題があるのか。君島東彦さんとの対話を通じて、あらためて考えてみました。
(2015年7月9日、立命館大学国際平和ミュージアムにおいて対談)


京都府生活協同組合連合会 会長理事
(京都府立大学公共政策学部教授)

上掛 利博

立命館大学国際関係学部 教授
君島 東彦(きみじま あきひこ)さん

  協同組合と平和――『戦争と平和を問いなおす』

上掛 君島さんは、大学生協京滋・奈良ブロックによる「大学生協寄付講座・戦争と平和を問いなおす」のコーディネーターを務められ、その成果として『戦争と平和を問いなおす』(法律文化社、2014年)を出版されています。いかがでしたか。

君島 この講座は1回生を対象にした全15回の授業です。「学問とは常識批判である」というのが私の持論なので、学生の思考に衝撃を与え、その刺激が4年間の大学生活に活かされることを期待して、プログラムを組みました。
 戦争と平和を問いなおすのですから、当然ながら、講義内容には「ヒロシマ・ナガサキ」や「沖縄問題」が入りますし、3・11の後ですから東京電力福島第一原発事故の問題も取り上げました。大学生協の講座ですから、協同組合のことも当事者から話していただきました。この講座を担当することで、むしろ私自身が協同組合と平和の関係性について学んだ気がします。
 つまり、協同組合は、市場競争ではなく社会的連帯によって人のくらしを守ろうとする組織ですから、まさに「構造的暴力」を克服する課題とつながるのですね。そのことを再認識しました。

上掛 社会的不正義をなくすような社会システムをつくるという点では、私の専門の社会福祉の場合も、人びとの意識や社会の制度を人間の幸福のためにふさわしいものに変革することが福祉の仕事(ソーシャルワーク)である、というのが国際的な定義となっています。
 平和が基本にないと福祉の実現も難しいのは明白ですから、市場競争とは異なる社会連帯の経済社会をどのようにつくるかは、平和の課題として重要であるだけでなく、福祉の課題としても、また協同組合の課題としても大切だと思います。

君島 その意味で、平和学は多様な学問分野の共同作業を必要とする学際的な研究領域といえますね。


  人類のサバイバルを考える学問――「平和学」とは何か

上掛 アジア太平洋戦争が終わって70年の今年、日本社会はあらためて戦争と平和の問題に向き合わざるを得ない状況に置かれています。君島さんのご専門である「平和学」とは、どのような学問なのでしょうか。

君島 「戦争の原因と平和の条件を探究する学問」というのが、よく使われる平和学の定義です。歴史を振り返ると、哲学や政治学、キリスト教神学などを通して、人類は昔から戦争と平和の問題を考えてきたことがわかりますが、学問として本格的に追究が始まったのは第2次世界大戦後、すなわち核兵器の出現後だろうと思います。
 核兵器の出現は、人類が自滅するほどの破壊力を手にしたことを意味しますから、その開発に関わったといわれるアインシュタインやオッペンハイマーといった科学者たちは「世界国家を構築して、核兵器をコントロールしないと人類は滅びるのではないか」という恐怖にとらわれましたし、その後の冷戦突入によって、各国市民の間でも「米ソが核戦争を始めたら人類は滅びるのではないか」という緊張が高まりました。そういう状況のもとで、人類のサバイバルを考える学問として登場したのが平和学です。
 世界で最初の平和学の授業は1948年に米国インディアナ州の大学でおこなわれ、1950年代に北米とヨーロッパでほぼ同時的に、平和学の研究が始まりました。1964年には国際平和研究学会ができています。


  「平和」とは、戦争を含む「暴力」を克服した状態

上掛 君島さんは、平和学を「いまここにある暴力を凝視し、その暴力を克服するために、自分自身の生き方を変革し、世界を平和的に変革するプロジェクト」と定義していますね。つまり、「平和」の反対概念は「戦争」ではなく「暴力」だと考えてよろしいでしょうか。

君島 戦争は、暴力の形態のひとつで、いわば究極の暴力ですから、真の平和とは、単に戦争がない状態ではなく、すべての暴力がない状態だと考えています。
 では、暴力とは何か。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは、暴力を「直接的暴力」と「構造的暴力」の2つに分けました。直接的暴力は、戦争や殺りくなど、直接に人を傷つけることであり、構造的暴力は、政治的抑圧や貧困など、社会の構造に根ざした暴力、社会的不正義を意味します。
 さらにガルトゥングは、直接的暴力、すなわち戦争を克服した状態を「消極的平和」と呼び、構造的暴力、すなわち社会的不正義を克服した状態を「積極的平和」と定義しました。もちろん、ここでの「消極的」というのは、悪い意味ではなく、価値中立的な言葉です。
 こうしたガルトゥングの主張は、平和学の世界では常識となっていますが、「構造的暴力を積極的平和の問題だとすると、すべての社会問題は平和問題となる。平和学の対象が無限定に拡散すると、焦点がぼけるのではないか。平和学固有の領域は、やはり戦争の問題だ」という意見もあって、私はそれもひとつの立場だろうと思っています。

上掛 平和学の対象について議論があるにしても、平和学における「積極的平和」が、日常生活にひそむ暴力を克服しようとするものだとしたら、安倍政権が唱えている「積極的平和主義」とはかなり異なりますね。
 平和学の概念としての「積極的平和」、すなわち差別や搾取、人権侵害などの構造的暴力を克服した状態は、戦争や武力紛争などの直接的暴力を克服した消極的平和の上におとずれると考えられるのでしょうか。

君島 それはいちばん難しい問題ですが、たとえば新自由主義的な政策をとることによって社会不安が増して、治安が悪くなり、社会対立が激化して、それを抑え込むために武力行使をする、という関係は現在の世界のひとつの側面としてありますね。その意味では、積極的平和と消極的平和はつながっていて、「戦争をやめろ」というのみで、新自由主義的な政策などの社会の構造に切り込まなければ、武力行使の機会は減らず、戦争を止めることはできない、という関係はあります。ただ、そのつながりを緻密に説明するのはとても難しいですね。


  核廃絶を求める市民の声が、国際司法裁判所を動かした

上掛 生協と平和運動の関わりでいえば、「世界法廷運動」があります。これにも君島さんは積極的に関わられてこられたのですね。

君島 核兵器が出現し、実際に使用されて以来、核兵器廃絶は世界の平和運動の大きなテーマとなり、とくに1990年頃から、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(世界法廷)から「核兵器の使用は国際法に違反する」という勧告的意見を引き出すために、世界中で「核兵器は違法である」という「公共良心の宣言」署名を集めようという運動が始まりました。
 この運動を呼びかけたのは世界の3つのNGO(国際反核法律家協会、国際平和ビューロー、核戦争防止国際医師会議)です。国際連合(以下、国連)の司法機関である国際司法裁判所に対して、国連総会や国連安全保障理事会、WHO等の国連機関は法解釈を尋ねることができますから、医師のNGOである核戦争防止国際医師会議は、その仕組みを活用するようにWHOに働きかけ、WHO総会は「健康の側面から見て核兵器の使用は国際法上違法か合法か」という問いを国際司法裁判所に投げかけました。
 国連総会でも90年代に同様の問いを国際司法裁判所に提出しています。193の国連加盟国のなかで、核保有国は9つにすぎない少数派で、ほとんどの非同盟諸国は核を持っていませんから、NGOの呼びかけに対して積極的に反応しました。
 また、国際法には「市民の意思を公的な良心として表明することができる」というような規定があるので、それに依拠して署名を集めたわけです。このとき、最も多数の署名を集めたのは日本生協連でした。

上掛 今から20年前、ちょうど戦後50年にあたる1995年を前に、それにふさわしい生協の取り組みとして世界法廷運動の学習と署名に取り組もうということで、結果的に333万筆もの署名を集めることができたのですね。

君島 あれは実に大きな役割を果たしました。私も日本反核法律家協会の会員として、96年の国際司法裁判所の勧告的意見の言い渡しを傍聴しましたが、裁判所長官は「核兵器の威嚇または使用は国際法に違反する」と述べ、スリランカ出身の判事は「世界の市民の声はここにある」と、「公共良心の宣言」署名について肯定的に言及しました。日本の多くの市民の願いとハーグの世界法廷がつながった瞬間だったと思います。


  市民には「平和責任」「戦前責任」がある

上掛 先ほどの『戦争と平和を問いなおす』には、アジア太平洋戦争終結後に生まれた世代の「戦後責任」や、平和を維持し、平和のために働く「平和責任」という言葉が出てきます。とくに原発をも含む「核の暴力」という問題は、福島原発事故や沖縄・辺野古の新基地建設問題などにも共通するのではないかと思われて、とても興味深く拝読しました。

君島 「平和責任」は長崎在住の哲学者の高橋眞司さんが提起された概念で、戦争責任に先立つ、いっそう根源的な責任、より高められた責任です。
 つまり、いまの大学生に「15年戦争の責任をとれ」というのは無理で、彼らに責任はない。しかし、いま戦争が起ころうとしているのであれば、その戦争を防ぐ責任があるし、過去に戦争があったとしたら、その過去の戦争を知る責任があるし、これから先、平和をつくっていく責任があるだろう、ということです。
 ですから、高橋さんは「戦前責任、戦争責任、戦後責任」の3つを挙げて、「戦争が起こる前に、戦争を起こさせない責任がある。それは戦前責任だ」という言い方をしています。そういう観点からすると、まさにいまの安保法案をめぐる状況は、私たちに「戦前責任」を果たすことを求めているといえますね。

上掛 今回の安保法案の審議については、どのように見ておられますか。

君島 日本政府は「集団的自衛権の行使は、憲法9条の枠を超えるので、できない」という解釈を確立してきたのですから、集団的自衛権の行使を可能にするためには憲法9条を改正しなければいけない。それをせずに解釈の変更だけでやろうとするのは無理がありすぎるし、「憲法に基づく政治」という意味で、立憲主義に反すると思います。
 また、議会制民主主義という点からも、いまの国会の状況は問題が多いと思いますね。安保法制は、10本の法律を改正し、1本の新しい法律を制定しようとするもので、非常に中身の多い、複雑な法案です。実際、政府の答弁も迷走していて、政府内でも法律の理解が一致しているかどうかがわからないし、どれだけの関係者が正確に理解したうえで提案しているのかも疑わしい。なおかつ国民の生活に非常に影響の大きい政策変更ですから、それを数だけで通すやり方は議会制民主主義をも侵害するのではないでしょうか。
 ただし、日本の安全保障の問題は、9条だけでなく現実の国際関係を見なければいけないテーマですから、国際関係論や国際政治学の知見も必要で、憲法解釈だけでは完結しない。そのあたりは、安保法案に反対する側も、もっと深めなければいけないと思います。つまり、安保法案に反対するならば、日本は憲法9条の解釈のもとでどういう安全保障政策をとるのがいいのかという議論をしなければいけない。そういう議論はまだ不足しているような気がします。


  社会運動の新しい可能性

上掛 来年夏の参議院選挙から18歳以上に選挙権が与えられます。これを機会に、若い人たちが政治的な問題についても自分の考えを表明できるようになればいいと思うのですが、1969年に文部省が高校生の政治活動を「教育上望ましくない」とする通達を出して以来、高校で政治を語ることがタブーのように扱われてきたという経緯もあります。

君島 私はアメリカや中国の学生と接する機会もありますが、彼らと比べると日本の学生は没政治性というか、政治を忌避する姿勢は顕著ですね。アメリカでも、中国でも、政治について語れないような男は、女性から見ても魅力がなく、モテないのに、日本では友だちとの間で政治を話題にしにくい雰囲気がある。
 そう考えると、政治制度の面では中国より日本のほうが民主的かもしれませんが、文化の面では中国のほうが民主的かもしれないという気がします。日本でも、政治について考えたり語ったりすることは当たり前のことで、むしろカッコいいことなんだ、というような文化の転換が必要だと思いますね。

上掛 私が暮らしたノルウェーでは、選挙の前に高校生たちが各政党の代表を呼んで、若者の要求を示し、各党の政策を聴いたうえで模擬投票をします。また、若い人が政治的な問題を語る場面も多いという経験をしました。

君島 日本でも最近、学生中心のデモが現れて、ようやく学生が発言し始めましたね。

上掛 京都では、ちょうど京都府生協連主催のピースパレードと同じ日に、同じコースで学生中心のデモ(※1)があったのですが、当初は600人ぐらいの参加を予想していたところ、沿道から加わる人もいて、最終的に2200人もの隊列に増えたそうです。
 しかも、彼らのデモは、ラップミュージックにのって、とてもカッコいいんですね。平和行進の日本海コースの参加者の人は、その人数の多さとパワーと斬新なスタイルに驚いていました。道行く人たちにもかなりのインパクトを与えたと思います。

君島 ある新聞は彼らのデモを取り上げた記事で、「護憲はカッコいい」という見出しをつけました。事実、彼らは社会運動をおしゃれでカッコよくすることにこだわっています。これは新しい社会運動の出現であり、ひとつの可能性でもあるので、大事にしたい。もちろん、上の世代の運動も重要ですから、お互いに否定し合わないで、横に並んで走ることが大切だと思います。

上掛 先ほど、文化の転換が必要ではないかというお話がありましたが、生活協同組合は生活の質の向上とともに、「生活文化の向上」を目的にしています。生協に対して、何を期待されますか?

君島 いまは弱肉強食の市場経済が大きな力を持っていますが、長期的な持続可能性という視点で見ると、人類社会のシステムが資本主義的な競争関係だけで維持できるとは思えません。ただ、それに対してどんなオルタナティブ(※2)な社会をめざすのかというところで、みんな悩んでいるんですね。その点、協同組合は、社会的連帯のあり方として、常にひとつのオルタナティブを示していく組織なのかなという気がします。
 また、そういう役割を持っている協同組合だからこそ、もっと大きくならなければいけないし、生協についてはもう少し研究しなければいけないと思います。

上掛 とても興味深いお話をありがとうございました。協同組合は、社会連帯を軸にした社会をめざして、文化や発想の転換をすることが重要だということがよくわかりました。これからもよろしくお願いします。

※1
SEALDs KANSAI(シールズ関西:Students Emergency Action for Liberal Democracy-s KANSAI)
※2
オルタナティブ…もう一つの選択、代案

写真撮影・有田知行


プロフィール:君島 東彦(きみじま あきひこ)
立命館大学国際関係学部教授。
早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。シカゴ大学ロースクール修士課程修了。専門は憲法学、平和学。日本平和学会理事、企画委員長。最近の著作として『戦争と平和を問いなおす──平和学のフロンティア』(法律文化社、2014年)等。毎年、ノーベル平和賞候補者をノミネートしている。