「京都の生協」No.88 2016年1月発行 今号の目次

人は、ひとりでは生きることができない。「たすけあい」が人間の本質
──競争と優劣重視の社会ではなく、勝ち負けのない平等な社会へ──

 人は、仲間と一緒に食べたり、遊んだり、子育てしたり、ケンカをしたり、仲直りしたりしながら、信頼関係を結び、社会を維持・発展させてきました。それはまさにゴリラ型社会。いま、人の社会は急速に「サル化」しつつあると、霊長類学者の山極さんは警鐘を鳴らします。人間の本質とは何か、人間の社会はどうあるべきなのか――。あらためて考えてみました。


京都大学 総長
山極 壽一(やまぎわ じゅいち)さん

京都府生活協同組合連合会 会長理事
(京都府立大学公共政策学部教授)

上掛 利博

  人として最も大切な能力は「共感力」

上掛 山極さんは、ゴリラを研究対象にして、その視点から人間社会について発言をされています。その指摘が、たいへんユニークで、しかもわかりやすく語られるので、ぜひ本誌で対談してほしいという要望がたくさん寄せられました。

山極 ありがとうございます(笑)。

上掛 『「サル化」する人間社会』(2014年、集英社)は、ゴリラとサルと人間の対比で現代社会の問題点が鋭く指摘されていて、うなずくところがたくさんありました。

山極 この本を書いたのは、情報通信技術の発達によって、人間が人としていちばん大切な能力である「共感能力」をだんだん使わなくなり、競争と効率優先の社会に向かいつつあるのではないか、という懸念があったからです。

 共感能力とは、他者の気持ちを理解する力のことですが、サルは、類人猿や人間に比べると共感能力が低いので、相手の気持ちとは関係なく、ひたすらルールにもとづいて行動します。でも、類人猿や人間は、その場の状況に応じたり、相手の気持ちをくみとりながら行動する。食物の分配がそのいい例で、サルは強いものから先に食べ始めますが、類人猿であるゴリラやチンパンジーは体の大きなものや年長者が体の弱いほうに分配します。そうすることによって特別な関係や新しい関係がつくられたり、自分が困ったときに助けられたりするかもしれないという感情が働くからです。

 さらに人間は、類人猿とも違って、相手から要求もされないのに食物を携えて行って、わざわざ分配をして、その場で一緒に食べるんですね。人間やサルや類人猿は、肉食動物と違って、毎日食べなければなりません。その食べ物を、人間は仲間と分け合うことによって、いろいろな感情を共有し、信頼関係を築いてきたのに、最近は、分かち合い、共有し、共感する能力を失いつつあるのではないか。そのことをわたしはとても心配しています。


  ルールと効率優先の社会は閉鎖的になる

上掛 人間社会が「サル化」するというのは、たとえば、どういう点ですか?

山極 電車に優先席が設けられていますね。昔はお年寄りや妊娠中の女性や体の不自由な人を見れば、優先席がなくても席を譲るのが当たり前でした。いまは、「優先席があるんだから、そっちに行けばいい」とか「子ども連れで満員電車に乗るなんて迷惑だ」という風潮が強まっています。つまり、ルールが最優先で、相手の事情や能力をくみとって、相手のために何かしたいという気持ちはない。それが「ルール化」する社会であり、人間が「サル化」するということです。

  わたしは、人間の人間たるゆえんは「家族」にあると思っています。家族は、自分のために相手がいるとは思わないし、相手のために無償で動きます。そういうなかで育って、一緒に食べたり遊んだりするうちに信頼関係をつくり、そういう信頼関係が人間の社会を保ってきたわけです。

 つまり、食事や遊びは、非生産的で、非効率的で、むだなことに見えるけれども、共感能力を培ううえでとても大事だし、共感能力がなければ信頼関係をつむぐことはできません。ところが、「サル化」すると、ルールさえ守れば、あとは利益重視だから、効率が重要視され、人びとは「個人の利益を高めるために仲間や社会やコミュニティがあるんだ」と誤解しはじめる。そうすると、自分の利益を高めてくれない者を敵として集団から追い出したり、集団の外に在る人と敵対したりして、どんどん閉鎖的な集団になっていく。いま、そういう社会に向かって走りだしているのではないかという気がします。


  音楽は「共同の子育て」から生まれた

上掛 人間だけが「家族」と「共同体」という2つの関係を両立させてきた、と書かれていますね。

山極 人間の祖先は、直立二足歩行をしていたと思われますが、二足歩行は敏捷性にも速力にも劣るので、肉食動物の格好の餌食になり、とくに幼児の死亡率が上がります。そこで人類は、多産という能力を身につけて、短期間に何度も子どもを産み、子孫を絶やさないようにしました。

  母親が次々に子どもを産むと、母親だけでは育てられないので、家族以外の人も子守歌を歌うなど育児に参加するようになります。つまり、「共同の子育て」が始まって、子どもは特定の親の持ち物ではなく、みんなのものになった。そこから人間の社会性がめばえたのではないかと思います。

上掛 子守歌の抑揚は世界中ほぼ共通しているとありましたが、それは「共同の子育て」と関係していますか?

山極 ゴリラやチンパンジーのように母親だけが子育てをする場合は、子どもは抱かれていれば安心できるので泣きませんでした。でも、人類になって多産で数多くの子どもが生まれ、いろいろな人が保育に参加するようになると、赤ん坊をあやす必要が出てきます。そのときに子守歌が生まれたのではないかと思われるのです。

 なぜなら、子どもは絶対音感を持って生まれるからです。赤ん坊は、言葉の意味などわかりませんから、おとなのあやし言葉や子守歌を「音の連なり」として聴いています。子守歌やあやし言葉が、高音で、ゆったりとしていて、繰り返しが多用されるのは、それが赤ん坊の耳に心地よく、安心感を与えるからです。

 このように、歌を使って同調したり、心を共有したりするコミュニケーションが、やがておとなの間にも普及して、人びとは音楽的コミュニケーションによって一体化し、人間に特有の社会性を身につけたのではないでしょうか。それはおそらく言葉が出現する以前のことだったでしょう。その結果として、われわれはゴリラやチンパンジーにはない複雑な社会をつくれるようになったのだと思います。 


  食をともにすることの意味

上掛 人間社会の「サル化」という変化に気づかれたのは、いつごろですか。

山極 90年代末の、ちょうどインターネットが普及し始めたころです。インターネットや携帯電話は情報提供の可能性を拡大しますが、それが個人の社会関係を貧困にしているのかもしれませんね。IT社会に効用があるとすれば、それは唯一、ネットワーク型社会だからボスや中心や階層をつくらないという点です。そういうIT的なつながりを入り口として利用しつつ、フェイス・トゥ・フェイスの関係につなげていくことが大切だと思います。

上掛 なるほど。山極さんは「家族」の定義は「食をともにするものたち」であると書かれています。私が暮らしたノルウェーでは、家族みんながそろって夕食をとっていて、家族を形成するうえで「食事をともにすること」の大切さを実感しました。

山極 サルは、同じ群れでも、なるべく離れて食べるんですよ。なぜなら、食べ物はケンカの源泉だから、ケンカが起こらないようにしようと気づかっているわけです。でも、人間の家族は逆で、ともに食卓を囲んで食べます。本来ならケンカの源泉のような食べ物を前にして、みんなで集まって食べるのは、お互いに親和的な関係にあることを了解し合っているからです。あまりにも日常的なことなので忘れがちですが、これはとても重要なことです。

上掛 日本では、子どもたちも含めて、一人で食べる「個食」が広まっています。

山極 それはわたしも危惧するところでして、むしろ一緒に食べる経験を子どものころからたくさん積むべきだと思っています。子どもは、ケンカのもとになる食物を使って、相手と交渉したり、仲良くなったりすることを覚えていきます。最も原始的にして最も重要な社会性をそこで育むのです。コンビニや電子レンジはいつでも効率よく食べることを可能にしたけれど、実は社会的能力を育む機会を奪っている。一緒に料理をしたり、一緒に食べたり、一緒に片づけたり、一緒に遊んだり、それはむだで手間ひまのかかることだけど、人間にとって非常に大事だと思います。


  「勝つ」ことより「負けない」ことが大事

山極 ゴリラはケンカを仲裁するとき、相手の目をのぞきこむんです。
上掛 どれぐらいまで近づくのですか?
山極 これぐらい(笑)。おそらく、そうすることで相手と一体になることをめざしている。こうして仲間にのぞきこまれると、それまでケンカをしていたゴリラはふっと力が抜けたようになって、落ち着くんです。

上掛 わたしは府立大で福祉を教えていますが、学生たちは他の人のために何かをしたいと願っています。他方で、対人関係に不器用になってきている面もあるので、励ましたいと思うのですが……。

山極 昔の学生は年中ケンカをしていて、相手を罵倒しつつ、でも相手の気分をちょっと推し量りながら、最後は和解する…というような調子でした。つまり、逆説的なようですが、もっと仲良くなるためにはケンカをしないとだめだし、相手とのダイアローグ(対論)も大切なんです。でも、いまの学生は、相手とぶつかることがこわくて、仲良くもなれない。そういう状況に置かれているような気がします。

 そのうえ、いまの学生は、自己実現を非常に強く求められ、その裏返しで自己責任が問われて、「自分はこの競争社会で勝ち抜いて、人にはできない目標を達成しなければいけない。それが自己実現だ」と誤解し、何か失敗をすると「あなたの責任でしょ」と言われて、立ち直れないほどになってしまう。

 でも、人生はいくらでもやり直しがききます。しかも、人間は他人によりかかり合いながら生きていくしかないのだから、そんなに「自己実現」にしがみついて、自分だけが高みに上がるなどということは考えなくてもいい。むしろ、人びとと協力し合いながら、一緒に何らかの目標を持って、実現していくことが求められているし、そのほうが楽しいですよ。

 ちなみに、サルの社会は勝敗をつけることで秩序を保っていますが、ゴリラは「勝つ論理」ではなく「負けない論理」で秩序を保っています。勝つためには相手を押しのけ、屈伏させなければいけない。そうすると相手は離れていき、孤独になってしまう。でも、負けないというのは、相手と同等の立場に立つことだから、相手を押しのけたり屈伏させなくてもいい。だから、ゴリラのケンカには必ず仲裁者が入り、ケンカをしていた両者もそれを歓迎します。

 人間も、もともとゴリラ型の社会だったのではないでしょうか。というのは、人間の子どもは負けず嫌いです。負けたくないけど、勝ってしまうと孤独になる。そのことを子どもは本能的に知っているから勝ちたがらないけれど、おとなから「勝て、勝て」と言われるから、つい勝ってしまう。その葛藤に子どもたちはけっこう苦労していると思います。

 現代社会もまた、勝つことを求めます。そのほうが、仲裁者は不要だし、効率的で、機能的で、経済的だから。でも、信頼感は、勝ち負けでは醸成できない。むしろ、時間をかけて、お互いが努力をして、譲ったり譲られたりするなかで、対等で平等な関係を構築していきます。それが「負けない」という思想であって、この発想を前面に出して社会なり組織なりをつくらないとだめだと思います。


  すべての人に開かれた大学へ――教育にもっとお金を!

上掛 京都大学は日本の大学政策に大きな影響を与える存在です。総長として、大学の役割について、どのようにお考えですか?

山極 世界のどの地域においても、大学への進学率が向上し、大学が大衆化していて、世界中の大学が「大学とは何か。高等教育は何のためにあるのか」ということを考えはじめています。

  その意味では、わたしはずっと発展途上国で仕事をしてきましたから、学問に対するアクセスの平等性がとても大切だと思います。いまはMOOC(※)のようなオープンウェアを使えば、発展途上国の若くて貧しい学生たちでも高等教育を受けることが可能になりつつあって、高い授業料を払って入学しなければ高等教育にアクセスできないという時代は終わりを告げています。科学の最先端の情報を市民と共有しようとする「オープンサイエンス」も、高等教育にアクセスする機会の均等を世界中で実現しようという動きのあらわれですから、日本ももっとどんどん開いていかなければいけないと、最近強く思うようになりました。

上掛 それは「学問の自由」の内実が問われることでもあると思います。他方で、大学にもこのところ経営効率化の波が押し寄せていますが……。

山極 わたしは、教育にはもっとお金をかけるべきだと思っています。というのは、学生たちに自由に教育や学習の現場を動いてほしいし、そうして得た学びがとても大事だと思うからです。たとえば京大の学生が国公私立の枠を超えて他の大学をどんどん回っていい。その意味での大学間連携はもっと行うべきだし、それをきちんと支えるだけの基盤的経費は政府が保障すべきだ。そうしないと、大学は存続できない。そこがいま、われわれがいちばん要請しているところです。
 
  幅広い世代の方々の学び直しの場として利用していただくことも、これからの大学には必要だと思いますね。若者のための大学ではなく、すべての人に開かれた大学であらねばならないと思っています。

※MOOC
“Massive Open Online Courses”の略。ウエブサイトで公開され、世界中の人が受講できる大規模講義。受講料は基本的に無料。

  学生にとって“カッコいい”“楽しい”世界をつくる生協へ

上掛 協同組合は、組合員を中心に多様な利害関係者が、対等で平等な関係を基礎に助け合う組織です。京都大学と京都大学生協は「相互協力協定」を結ばれていますが、協同組合や大学生協にどんなことを期待されますか?

山極 大学生協は、やはり学生が主人公だと思います。わたしも、生協の学生委員会の諸君と話し合って、「京大×聖護院八つ橋」「京大野帳」「ゴリラ・フロマージュ」という3つの総長グッズの開発に関わりましたが、いまの学生は昔よりも奇想天外な発想力を持っているということを強く感じました。それを実現させてあげられるような環境をつくれないかと思いますね。

 とかく生協は古くさいイメージがありますが、こうした学生の発想力を活かして、デザイン性豊かな、「カッコいいな」「楽しいな」と思えるような世界をつくってほしいと思います。

 それと、そうやって開発したグッズの売り場も、学内に限るのではなく、京大なら動物園、府立大学なら植物園などに設けたら、大学への理解や関心を一般の人たちにも深めてもらう機会になるのではないでしょうか。これはいまの時代にとても必要なことだと思います。

上掛 なるほど。社会が大きな岐路に立ち、知的拠点としての大学の存在意義が増しているいま、大学で生協が果たす役割も大きくなってきています。きょうは、人間以外の生き物の視点からわたしたちの社会を考えるという貴重な機会をいただき、ありがとうございました。


写真撮影・有田知行


プロフィール:山極 壽一(やまぎわ じゅいち)
●京都大学総長 ●専門:人類学・霊長類学 ●1952年東京都生まれ ●理学博士
●京都大学理学部卒業、同大学院理学研究科博士後期課程研究指導認定退学。
●日本学術振興会奨励研究員、京都大学研修員、(財)日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手を経て、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授。2011~12年度は大学院理学研究科長・理学部長を務めた。2014年10月1日より現職。
●著書に『京大式おもろい勉強法』(2015年、朝日新書)、『「サル化」する人間社会』(2014年、集英社インターナショナル)、『家族進化論』(2012年、東京大学出版会)、『15歳の寺子屋 ゴリラは語る』(2012年、講談社)、『暴力はどこからきたのか』(2007年、NHKブックス)、『ゴリラ』(2005年、東京大学出版会)など多数。
●日本霊長類学会会長、国際霊長類学会会長を歴任
●日本アフリカ学会理事、中央環境審議会委員、日本学術会議会員、国立大学協会副会長
●アフリカ各地でゴリラの行動や生態をもとに初期人類の生活を復元し、人類に特有な社会特徴の由来を探っている。