「京都の生協」No.89 2016年4月発行 今号の目次

京商人の住まいと食から学ぶ「ていねいな暮らし」
──杉本家住宅が、現代に生きるわたしたちに伝えるもの──

 四条烏丸のオフィス街に近い杉本家住宅は、間口30メートルという、京都市内でも最大規模の町家で、国の重要文化財の指定を受けています。しかしながら、杉本さんが話す“杉本家の暮らし”は質素そのもので、思わず「謙虚」という言葉が浮かんできました。あふれんばかりの物に囲まれた現代のわたしたちの「暮らしの質」を考えるうえで、この家から学ぶことが大いにありそうです。


京都府生活協同組合連合会 会長理事
(京都府立大学公共政策学部教授)

上掛 利博

公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会
常務理事兼事務局長/料理研究家

杉本 節子さん

  「奈良屋」は“京ブランド商法”の店――杉本家住宅のはじまり

上掛 このお宅には、以前にノルウェー大使館の方を案内したことがあります。また、祇園祭の屏風祭で「伯牙山(はくがやま)」の懸装品(けそうひん)が飾られていたのも拝見しました。

杉本 そうでしたか。いらしてくださって、ありがとうございます。祇園祭は、それぞれの町内の共同体を象徴するもので、この家のある矢田町は「伯牙山」を出す山町ですから、とくに強い共同体意識があります。マンションが増えて、新しく入町した人たち全員に祭への参加を義務づけるのは難しいこともありますが、祭を中心に人びとが結束して動いていく姿はこの界隈の特徴でもあると思いますし、共同体としてのつながりの強さは祭があってこそではないかと思います。

上掛 杉本家は、もともと呉服店だったとうかがいました。始めにその歴史を教えてください。

杉本 初代は、江戸時代の宝永元(1704)年に三重県の伊勢地方の農家に生まれて、13歳のときに、京都で手広く商売をしていた「奈良屋」という呉服店に丁稚奉公に出ました。そのお店で25年間を勤めあげた後、のれん分けを許されて、寛保3(1743)年に呉服商の「奈良屋」を創業したのが始まりです。ちなみに、のれん分けのことを、当時は「宿場入り(やどばいり)」と呼んでいました。

 最初は烏丸四条上ルの小さな間口の借家で商売を始めて、24年後にこの矢田町に移転し、住まいと店舗を構えます。それ以来、10代目の私まで代を重ねてきました。

 この奈良屋は、もともと京呉服を扱う商人です。他国に物を売りさばく店を持つ「他国店持京商人(たこくたなもちきょうあきんど)」という形態で、主に関東地方で商売を広げました。地方で京物を売るのですから、いわゆる「京ブランド商法」とでも申しましょうか。三井家や大丸、高島屋など、いまでも残っている大きなお家はすべからく「他国店持」という商売形態だったようです。

 奈良屋が最初に出店した佐原(さはら)※は、利根川流域に位置し、水運が発達していて、伊勢地方の山田と並ぶ地方都市の経済の拠点でした。また、佐原にも八坂神社があり、祇園祭がおこなわれていることも、店を出す地に選んだ大きな要因だったと思います。その後、現在の佐倉市や千葉市で呉服店や百貨店を営むようになりました。

※佐原市は千葉県北東部に存在した市。2006年3月27日に香取郡栗源町、小見川町、山田町と合併し、香取市となった。

  熱意によって守られた杉本家住宅――財団法人の設立

上掛 杉本さんのお父さまは、フランス文学者として京都女子大学や国際日本文化研究センターで教育・研究に携わられた杉本秀太郎さんですが、この家の保存のため財団法人を立ち上げようと考えられたのは、秀太郎さんですか。

杉本 父や私は、何らかの事情でこの家が壊されて、住めなくなったとしても、それは杉本家の歴史のひとつであり、住む力がなくなれば身の丈に合ったところに移り住むのは人としてこの世に生きるならいであると覚悟するところもあったのですが、母はこの家を存続させたいという熱い思いを持っていました。この母の支えなくしては、父も9代目当主として、呉服商から財団法人の運営へと家業換えをするという大事はなしえなかったと思います。

上掛 秀太郎さんは、研究者の道を歩まれて、家業は継がれなかったわけですね。

杉本 はい、そのため、祖父が亡くなったときにこの家をどうするかという問題が出てまいりました。と申しますのは、千葉の「奈良屋」は、私の曾祖父の代に株式会社化されて、この家も会社の資産になっておりました。父は学者としてそれなりに業績を積み、社会的にも認知されておりましたし、子どもは私たち三姉妹だけでしたから、奈良屋を継ぐ直系の者はおりません。

 会社としては自己資産であるこの家を取り壊して再開発したいという意向でしたが、梅原猛先生をはじめ、有識者や経済界の方がたなど、父を支援してくださるみなさんが「この建物は文化財的価値がある。財団法人化してはどうか」と、後押しをしてくださったのです。

 それでも、会社の資産である土地・建物を財団法人に寄付してもらう手続きにはかなりの時間とエネルギーが必要で、当時20代半ばだった私も落ち着かない時期を過ごしました。京都府から法人設立の認可をいただくことができましたのは、祖父が亡くなって4年たったときでした。


  「歳中覚(さいちゅうおぼえ)」にみる江戸時代の杉本家の暮らし

上掛 そのようなご苦労があって、この家が残ったわけですね。そのおかげで、われわれは京町家の暮らし方に関心を持ち、学ぶことができます。杉本家には、年中行事やしきたりを記した「歳中覚」という帳面が残されていると聞きました。

杉本 「歳中覚」は、「寛政の改革」がおこなわれていた寛政2(1790)年に書き始められています。途中に何度も書き改めをしてきたことが記帳されていますが、その最後が、天保12(1841)年で、現在、手元にのこされているものです。京都のまちは天明8(1788)年の大火で大きな被害を受けましたので、寛政年間というのは、改革の推進とともに、焼け野原から復興していく時期でもありましたし、最後の書き改めがある天保12年も「天保の改革」が始まったその年でした。

 そう考えますと、「歳中覚」に家の暮らしぶりを書き記したのは、大切な年中行事を滞りなくおこなうためであると同時に、士農工商の身分制度のもと、それぞれが分相応の暮らしをしなければ罰せられる時代に、一商人としてお上のおふれに従った暮らしぶりを示す意味合いが強かっただろうと思います。

上掛 たとえば食については、どのようなことが書かれているのでしょうか。

杉本 杉本家は、初代から西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の門徒でしたから、開祖・親鸞さまのご命日にあたる毎月16日は、親鸞さまが好まれたという小豆と子芋と焼き豆腐の入ったおみそ汁をいただくこと、ただし、旧暦の5月から8月の夏の間は焼き豆腐の代わりにナスを用いること…と朱筆で書かれています。また、お誕生日にあたる21日は、茶めしに、小さな賽の目切りの豆腐が入った汁で、これも夏の間は豆腐の汁物の代わりにナスのどんがめ煮を用いることが書かれています。ナスのどんがめ煮は、格子状に切り込みを入れたナスを赤味噌仕立ての汁の具にしたもので、ナスを泥の中にいるカメに見立てた料理です。

 京都の「おきまり」の料理として、際の日、つまり晦日にはおからを、8のつく日には芽が出るようにあらめを、1日と15日には小豆のごはんやおぜんざいを食べる、ということがよく言われますが、この家にはそのならわしはないのです。

上掛 そうすると、杉本家の食習慣には、信仰が大きく影響していたわけですね。

杉本 江戸幕府は、寺請制度で寺に権限を持たせて人民支配をしておりましたから、寺と民衆の関係性は、わたしたち現代人が思う以上に従属関係にあり、信仰が暮らしの中心に濃厚に息づいていたのだろうと思います。

 当然ながら、町家のそれぞれの習慣や家風は、その商売の業種や形態や規模、それに加えて信仰する宗派によって大きく異なっていると思います。


  季節とともに暮らし、時代に応じて変化をいとわず生きる

上掛 「歳中覚」には、ほかにどのようなことが書かれていますか。

杉本 お正月や五節句の行事だけでなく、火鉢を出す日やしまう日も書かれています。おもしろいことに、3月3日の「上巳(じょうし・じょうみ)の節句」の前日の2日には土蔵の窓を開けること、10月の終りには火鉢を出して冬の準備をすると同時に、土蔵の窓を閉めることが書かれているんですね。つまり、それだけ防火を重視し、蔵の窓を開閉するというおこないで季節の節目、暮らしのけじめをつけていたのです。

 食においても、ふだんの朝夕は茶漬けと香の物、昼は一汁一菜で、毎月10日と20日と晦日だけはお魚を、主人も雇われ人も年功序列も関係なくいただきました。そして、9月10日から3月2日までの寒い時期の朝ごはんは、お茶漬けではなく茶がゆにすると書かれています。

 つまり、3月2日までは食も住まいも冬仕様で、3月3日の「上巳の節句」を前に、蔵の窓を開け放ち、雛人形を出してくることで一気に春の暮らしになるわけです。私の子どものころには、もう蔵の窓の開け閉めはしておりませんでしたが、食のならわしと考え合わせますと、蔵を中心にした暮らしのつむぎ方、いわば歳時記のようなものが見えてくる気がいたしますね。

 ほかには、先祖代々の法事の献立、梅干し漬け、漬物を漬けることなど保存食の仕事も書かれ、5月の創業記念日の献立は上書きが24枚も貼られています。それを見ておりますと、時代の流れや当主の交代、住まう人などに柔軟に合わせて暮らしを変化させてきた履歴がよくわかります。

 ですから、祖父も祖母も「『歳中覚』にあるとおりにしなければいけない」とは申しませんでした。逆に「時代に応じた暮らし方をしていけばいい」と教えてくれているようにも思います。さらに、いまは財団法人の資産になりましたので、財団の事業にふさわしいかたちで人形飾りをしたり、行事の日取りを設定するようにしています。


  「おばんざい」は、京の人びとの心身を養ってきた“ふだんのおかず”

上掛 私の勤務する京都府立大学は、新たに和食文化に関する高等教育機関の開設をめざし、研究センターを設置しており、杉本さんには客員教授に就任いただいています。

杉本 昨年暮れに、同センターの講義でお話ししましたときは、男子学生のみなさんも熱心に受講してくださって、ふだん女性や食物栄養専攻の学生さんを前にすることが多い私にとりましては、とても新鮮な体験でした。新しい学科でも学生さんたちとの出会いを、とても楽しみにしております(笑)。

上掛 講義では、「おばんざい」について話していただくこともありますか?

杉本 「おばんざい」は、京都の家庭のふだんのおかず、さもない料理を指す言葉ですが、随筆家や料理研究家として活躍なさった大村しげさんが新聞の連載エッセーのなかで使われたのが始まりで、実は、この界隈では使っておりませんでしたし、祖母も「昔は『おばんざい』という言葉は使うてへんかったんや」と申しておりました。

 たぶん高度成長期に京都に関する情報が全国で求められるようになり、大村さんが発信された「おばんざい」が各地で受け入れられて、京都に逆輸入されたといえるのでしょう。私も、もともと馴染みのない言葉でしたから、最初は抵抗がありましたが、京都のふだんのおかずをひとことで表現する言葉としてはとてもわかりやすいので、いまは使っております。

上掛 たしか、もうひとつ別の呼び名がありましたよね。

杉本 「お雑用(ぞよ)」です。地元では「おばんざい」よりも「お雑用」のほうが使われていたと思いますが、うちではふつうに「おかず」と言っておりました。

上掛 料理研究家として「おばんざい」を定義すると、どのようになりますか?

杉本 ひとことで表現すれば、「おいしぃなりすぎんでええ料理」ですね。お料理は、まずいよりはおいしいほうがいいに決まっていますが、お料理教室の生徒さんには「余分な食材は使わず、ミニマムに仕立てる料理がおばんざいですよ」と説明しています。

 このように定義する最大の根拠は、「歳中覚」に書き記された、朝夕はお茶漬けと香の物、お昼は一汁一菜、お魚は月に3度だけという食のならわしにあります。最低限必要な食べものを大切にいただくことは、人として分相応の生き方と申しますか、とても大事なものであり、「おばんざい」を通じてそうした京商人の精神を発信するのが私の自己表現のひとつでもあると思っています。


  「おばんざい」の精神を象徴する“お漬物”

上掛 「おばんざい」は、京都の地元の食材との関係が深いと考えられますが…。

杉本 そう思います。「三里四方のものを食べていれば病知らず」という言い伝えがありますように、自分が毎日飲んでいる水と同じ水質で育った野菜が、からだにいちばんなじむのでしょう。京都は、かつては都でしたし、近郊は昔から京野菜の栽培が盛んで、農家のみなさんはハイレベルの栽培技術を有しておられて、需要も多うございました。そうした土地に根ざした豊かな食材が、おいしい「おばんざい」を生み出すことにつながったと思います。

上掛 代表的な「おばんざい」を挙げるとすれば、何になりますでしょうか?

杉本 なかなか難しいご質問ですが、私は「香の物」、つまりお漬物ではないかと思います。と申しますのは、「歳中覚」にもあるように、昔は朝夕にお茶漬けと香の物を食べておりましたので、お漬物は欠かせず、この家にも「旧漬物小屋」が残っています。お漬物は、年がら年中食べますので、うちぐらい大規模な商家になりますと、自分とこで大量に漬け込み、それを自分とこの漬物小屋で貯蔵していたのです。

 お大根を秋の終りから冬の初めに漬けますと、だいたいお正月の7日ころには「新こうこ」が漬けあがります。それをおいしくいただいた後は、だんだん古漬けになりますので、刻んで塩気と香りを抜いて、そのままお漬物として食べたり、「おこうこの焚いたん」というお料理にしたりしました。これは、薄切りにして塩気と香りを抜いた「おこうこ」に、おじゃこと鷹の爪を入れて、おしょうゆで少し焚き直したものです。香の物を、自分とこで漬けて、それを大事に最後まで食べきるのは、京都の「おばんざい」の精神をあらわす象徴的なお料理ではないかと思います。


  人として分をわきまえた生き方を

上掛 では、今日的な「おばんざい」といえば何になるでしょう。

杉本 「ふだんのおかず」ととらえるならば、和食に限る必要はありませんで、先ほどお話しした「おこうこ」にしても、塩気を抜いてから、ごま油と鷹の爪でちょっと炒めると、中華風のザーサイ炒めのような料理になりますし、「おからの焚いたん」をコロッケにするのも「おばんざい」だといえましょう。

 そう考えますと、もとの料理を今風に展開させたのが「現代のおばんざい」としてとらえられるのではないのかなとも思います。

上掛 なるほど。杉本さんは、京都生協の組合員さんとうかがいましたが、生協の食材についてのご感想は?

杉本 生産者の方も、消費者の目線に立って、安全・安心な食材の提供を心がけておられることがよくわかります。

 おばんざいはある程度の保存がきくことが大事ですから、私の小さいころは、お豆さんの焚いたのでも、おからの焚いたのでも、大きなお鍋でつくって、火入れで日持ちをさせながら何日も食べつないでいきました。でも、いまはとにかく「賞味期限」で判断して、それを過ぎればすぐに捨てるといった風潮が強いような気がします。

 私たち消費者は業者さんから提供される情報に依存するところが大きいので、販売者の方には正確な情報を提供していただいて、消費者は最後までむだなく食べるようにしたいものです。その点、生協は食品の提供の仕方をよく考えておられるという信頼がありますね。

上掛 杉本秀太郎さんは、ご著書のなかで「教養」ということの大切さを述べておられます。生活協同組合も、「生活の質」を高めるために「学ぶ」ということを重視しています。

杉本 なかなか耳の痛いお話ですね(笑)。ただ、たとえばこの座敷の掛け軸の画風や画家や描かれた時代背景などを理解していると、より深くこの客間の空間を味わうことができるだろうとは思います。

 それと、父が申しました「教養」というのは、自国の歴史や文化をきちんと見つめ直すことではないでしょうか。町家はそれを伝える有形の文化財、そこに息づく暮らしは無形の文化財で、この家全体が「人としての分をわきまえて生きる」ということを教えてくれています。

 先ほども申しましたように、人も自然界の一部であり、四季に合わせた暮らし方がいちばん身の丈に合っているのですから、原発の問題のように、天に唾すれば必ず自分に降りかかってくるということをきちんと心にとめおいて、もっと慎み深く生きるべきではないかと思います。

上掛 お話をうかがって、季節に合わせた「ていねいな暮らし」というのは、人としての生き方に通じていることを教えられたように思います。ありがとうございました。


写真撮影・有田知行


プロフィール:杉本 節子(すぎもと せつこ)
京都市生まれ。公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会常務理事兼事務局長、料理研究家、エッセイスト。
生家は重要文化財『杉本家住宅』・名勝『杉本氏庭園』。和食文化に詳しく京町家杉本家と京都の年中行事・歳時記に関する歴史・食文化と伝統食を継承。食育活動、テレビ出演、著作執筆、食文化展示監修、国内外での講演、料理講師、大学非常勤・客員教授、企業・店舗メニュー開発・監修など幅広く活躍。
京都府認定『きょうと食いく先生』。京都市『京都をつなぐ無形文化遺産「京の食文化」』アドバイザー。京都府・京都市『京都・和食文化推進会議』企画運営会議委員。京都府「京都文化フェア(東京オリンピックに関わる文化フェア)呼びかけ」に基づく推進委員会ワーキング会議推進委員。平成27年4月京都府立京都和食文化研究センター客員教授就任。

【賞・表彰】
平成21年京都府『あけぼの賞』受賞。
平成26年10月京都市『和食―京の食文化』特別表彰。