「京都の生協」No.97 2019年1月発行 今号の目次

伝統の粽(ちまき)を守りながら考える、京のまちとくらしの未来
── 丁寧な仕事から見えてくる大切なこと ──

京都には有名な和菓子がいろいろあります。そのなかでも「川端道喜」の粽や生菓子は、なかなか手に入らないことで知られています。でも、それは気取りとかではなく、質の良い材料を使って、丁寧に手を動かし、おいしいお菓子をつくりたいという想いを大切にすると、少量生産にならざるを得ないのだということが、今回のお話でよくわかりました。そういう姿勢が、経済発展を効率的に追い求める今日の社会や、ネットの情報や世間の評判に流されがちな人びとのなかにあって、五百年を超える伝統を守りながら、京のまちの本物の文化を育んできたのではないかと思います。


京都府生活協同組合連合会 会長理事
(京都府立大学公共政策学部教授)

上掛 利博

「御粽司川端道喜」代表
川端 知嘉子(かわばた ちかこ)さん

  なぜ葛の粽が生まれたか

上掛 川端道喜といえば、笹の葉で巻かれた細長い粽が何本も束ねられた独特の形状で知られています。なぜ、あの形なのですか。

川端 昔から各地で作られていた米粉を使った団子粽は、茅(ちがや)や菖蒲の細い葉に包んだので、細長いおにぎりのような形をしていたものが多く、「茅巻き」とも書かれました。それが、応仁の乱の後、天皇さんが召し上がるものにも窮しておられることを知った吉野の国栖(くず)族が、御所に葛を献上しましたので、その葛粉を食べものに調製してほしいとの依頼が、初代道喜に来たんですね。

葛は、消化がよくて身体を温めてくれるありがたいものですが、炊くと軟らかくなる性質があるので、どろっと流れてしまいます。それで、もっと幅の広い葉で包まないといけないということで、初代の道喜が熊笹を使うことを考案し、現在のような形になりました。それに笹には抗菌作用もあります。


  御所を支えた京町衆

上掛 川端道喜は、室町時代から明治の東京遷都の時まで、毎日、天皇さんに粽や餅を届けたことで知られていますが、創業はいつの頃になりますか。

川端 室町幕府公認の商人たちで構成する「座」のうち、「餅座」の権利を道喜が得たのが1512年ですから、創業はそれ以前の1502年頃ではないかといわれています。
いまの政治と違って、室町時代の御所の政(まつりごと)では儀式がとても重要で、儀式とお餅は切り離せない関係にありましたから、道喜は、応仁の乱のずっと前から内裏にお餅を納めていたようで、川端家に伝わる古文書には、召し上がりものの他に儀式用のお餅を納めた記録が残っています。

加えて、応仁の乱の後、御所は荒れ果て、幕府も弱体化して朝廷を支える力がなく、天皇さんは食べるものにも困っておられたので、道喜が「御朝物(おあさのもの)」と呼ばれる、天皇さんが召し上がる朝食用のお餅を庭先まで届けていたようです。川端家の歴史を綴った『家の鏡』という絵巻物には、その場面が出てきます。 そういう状況ですので、御所の近くに住まう6つの町の衆が、御所の警護やお掃除などのお世話をするようになり、その人たちは「六丁衆」と呼ばれました。道喜がその長を務めていたようです。

上掛 そうすると当時、お店は御所の近くにあったのですか。

川端 そうですね。御所の傍に川が流れていて、その川沿いに店を構えていたので「川端の道喜」と呼ばれるようになり、家名も「渡邊」から「川端」に変えたようです。もともと源融(みなもとのとおる)(※)の子孫の渡邊綱(わたなべのつな)(※)の末裔の渡邊進が餅屋を創業して、その娘婿が初代の道喜を名乗りました。

上掛 そうした内裏との深いつながりの証しとして、いまも御所には、建礼門の東に「道喜門」が残っています。
川端道喜専用の通用門ですね。織田信長や徳川幕府が朝廷を援助するようになってからの御朝物は、代々の天皇さんが、困窮されたご先祖さんを偲ばれる「朝餉(あさがれい)の儀」という儀式になり、道喜が献上したお餅は箸をつけずごらんになるだけになったということですが、その習慣は東京遷都の前日の朝まで350年余り続きました。
※源融(みなもとのとおる)平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)。
※渡邊綱(わたなべのつな)平安時代中期の武将。頼光四天王の一人。渡辺氏の祖。


  京町衆と天皇の関係

上掛 明治になり、天皇に従って東京へ移り住んだ商業者も多いようですが、道喜は京都に残りましたね。

川端 ずっと御所にご奉仕してきましたので、東京に来るようにと再三お誘いはあったようですが、十二代の道喜は、東京宮内省大膳職に儀式用のお餅の作り方や盛りつけ方をお教えするために上京しましたが、「水が合わん」と言って帰ってきたそうです。

私が思いますに、道喜は御所の御用だけをしていたわけではないんですね。京都には、長年の文化を支えてきた、腕のいい職人さんがたくさんいらっしゃるし、特に「六丁衆」は、御所のご用で、たとえば畳屋さんの手が足りないときには餅屋の道喜も畳換えを手伝うというように、六丁衆のみんなで支え合い、御所の用事や京都のものづくりを担っていました。それを途中でやめて、お公家さんと一緒に東京へ行ってしまったら、京都がゴーストタウンみたいになりますから、六丁衆の長である道喜としては東京へ行くわけにはいかなかったのではないか。それを十二代はさらっと「水が合わん」と言ったわけで、むしろ格好いいと思います。

上掛 そう考えると、町衆と御所の関係はおもしろいですね。京都の人は、秀吉を「太閤」、信長を「信長公」と呼びますが、天皇は「天皇さん」と呼びますよね。

川端 そこには京都の歴史から生まれた独特の関係性があるのかもしれません。いまは天皇といえば近寄りがたい存在で、東京のみなさんは「天皇陛下」とおっしゃいますけれど、昔は天皇さんと町衆が、御所の中でお月見や蹴鞠やお能を一緒に楽しむなどして、もっと親しい関係だったようです。だからなのか、京都の人は天皇さんをあまりまつり上げませんね。いまは、周囲が天皇さんを近寄りがたい存在にしているだけではないかと思います。


  道喜と千利休

上掛 道喜は、千利休とも深いつながりがあったと聞いています。

川端 初代道喜と利休さんは、ともに茶人の武野紹鷗(たけのじょうおう)の弟子で、お互いにかなりの信頼関係があったようです。たとえば秀吉を招いた有名な「朝顔の茶会」のことを、利休さんは初代道喜に報告していて、そうした2人の間の手紙がいくつか残っています。
また、利休さんは晩年に茶事を100回なさっていて、それを記録した『利休百会記』には、ある日の茶会に、初代道喜と織田信長の下で京都所司代役を務めていた村井長門守貞勝が招かれたことが載っています。

これについて当家の十五代は、自著『和菓子の京都』(岩波新書、1990年)のなかで、信長が足利将軍への見せしめに「上京(かみぎょう)焼討ち」をしようとしたとき、初代の道喜が六丁の長として、「御所と六丁は焼かないように」と交渉をしたのではないかと書いています。おそらく、その交渉の場が『利休百会記』に出てくる茶事で、利休さんが道喜を信長の代理たる村井貞勝に引き合わせたのではないかと、私は推測しています。道喜は、町衆の代表として、京のまちを焼討ちから守ろうとしたのではないでしょうか。


  道喜の粽の危機

上掛 ところで、知嘉子さんは、もともとは絵を描いていらした方?

川端 日本画をやっていました。父も画家で、お世話になった方に、道喜の粽をお届けしていましたから、私は高校を卒業するころまで、その粽を自転車で上賀茂の道喜のお店に取りに行く役目でした。その後、私が神戸の大学に絵を教えに行くためバスを待っていると、それがちょうど今のお店の前で、上賀茂のあと大原から北山に引っ越してきた道喜のお母さん、つまり後に義母となる人が引越しの荷解きを一所懸命にしていたので、思わず「何か召し上がるものでもお持ちしますね」と声をかけたのが縁なのか、十六代と結婚することになりました。

結婚したとき、夫は「ずっと絵を描いていたらいいからね」と言っていたのですが、彼は45歳で亡くなってしまいまして、道喜の伝統を絶やすわけにはまいりませんから、次代のために技術だけは覚えることにしました。

ところが、折悪しく、夫が亡くなった翌年ころから、粽を巻くのに使っていた香りのよい京都の北山の笹がとれなくなってしまいます。笹は竹と同じく60年程の周期で枯れますし、しかも北山では、ニホンオオカミの絶滅によるシカの増加で笹の新芽が食べ尽くされ、香りのよい笹が手に入りにくくなったのです。ですので、いまも粽は本当に少量しか作れません。島屋さんや大丸さんで週末に少し販売する以外は、すべて予約で提供させていただいています。


  伝統の継承と、それを支える人のつながり

上掛 そういうなかで道喜の伝統を受け継ぎ、守るというのは大変だったでしょう。

川端 夫が亡くなったとき、長男は中学に入学する直前で、娘は小学1年生でしたから、子どもが成長して「店を継ぎたい」と思ったときのために私が技術を継いでおかなければと思い、日本画はいったん横において、義母に店の仕事を習うことにしました。ところが、しばらくして義母も倒れてしまったんですね。ですから、技術を継承するという意味でも、経営という意味でも本当に大変でした。

でも、つくづく私は人に恵まれていると思います。そのころ、アルバイトを京都府立大学の学生さんにお願いしていたのですが、中心になって支えてくれたのはバンドを組んでいた2人の学生さんで、笹の激減で粽の生産量が落ちたとき「生菓子を作りましょう」と提案してくれました。代々伝わるお茶事用の生菓子はあったのですが、裏千家さんのお茶事用が主でほとんど毎日は粽作りでした。でも、笹不足で粽が作れなくては食べていけませんので、生菓子をもっと作ろうという提案は時宜に適っていたのです。月に何度か作るようになると生菓子作りの腕も上がり、お客様からお褒めの言葉もいただくようになりました。

とはいえ、私が店に入ったころはまだまだ手際が悪く、たとえば1月の「御菱葩(おんひしはなびら)」を作るときなど、裏千家さんが朝7時に取りに来られるので、ほとんど夜通しの作業が1カ月ぐらい続くのです。でも、2人の青年は後期試験と重なったにもかかわらず、ちゃんと仕事に付き合ってくれました。それで、「いつ寝てるの?」と尋ねると「試験のとき寝てます」と、あっけらかん(笑)。 学生バイトは長くて4年で交代ですが、彼らは卒業後もロックバンドの活動を続けながら十年ぐらい勤めてくれ、いまも交流があります。
現在は、夫のいとこが手伝ってくれて、とても助かっています。長いお付き合いのお客さまも、ずっと見守ってくださいました。私は、そういう人びとの縁に本当に恵まれています。


  浮足立つ京都

上掛 知嘉子さんは岩波書店の『図書』(2018年5月号)に書かれたエッセイで、「京都の文化は、京都風ではいけないし、といって先に『京都』という先入観をもって創られたものも、うすっぺらくなるように思う。…心と手と五感を研ぎ澄まして磨かれてきた技で創られた本物、それを感受し、美や質を判断する審美眼を持つ者が…切磋琢磨して創り上げてきた」のが京都の文化だったのではと指摘されていて、なるほどと思いました。

川端 本当に京都を好きな、洗練された美意識や感覚をお持ちの方は、「もう京都はいいわ」と言って離れつつありますから、放置していたら大変な事態になるのではないかと危惧しています。

たとえば、心から着物を愛してこられた方は、冬なのに浴衣のようなペラペラの着物を着せられて歩く若い人たちを見て、がっかりされているのではないでしょうか。食にしても、いまのように情報があふれていないころ、有名ではないけれど小さなお店の奥で年配のご夫婦が2人で懸命に手を動かして、とても質の良い美味しいお菓子を作っておられる、そんなお店が京都のそこここにありました。そういうお店が消える一方で、ブームに乗って規模を拡大しているお店もあります。テレビやネットで、「いま京都で話題のお店」と評判になれば、どんどん売れていく。そういう事態が、食でも衣でも進めば、京のまちは安っぽいテーマパークと化すのではないでしょうか。

今、観光の人であふれていますが、そのなかで失われていくものがあります。行政や事業者の方は、押し寄せる観光客の数に浮かれて、大事なもの=本物を見失ってはいけないのではないでしょうか。私たち市民も、テレビやネットの情報に頼りきるのではなく、自分の感性を磨く努力も大切なのではないか。そうでないと東京遷都の時よりも危うい、そんなことを強く思います。


  一人ひとりの個性とまちの伝統が、ともに大切にされる未来

上掛 「六人衆」とも重なりますが、協同組合の「協」という字は「多くの力を合わせる」という意味です。今日的に言うと、多様性の尊重でしょう。生活協同組合にどんなことを期待されますか。

川端 若いころ公設市場に行くと、威勢のいい掛け声や温かい裸電球の色合いですごく元気になったし、ヨーロッパの市場では曲がった野菜や大きさの違う果物が積むように売られていて、旅行者だと知ると1つおまけしてくれたり、彼らと会話するだけで「人間どこも同じだなぁ」と感じた経験があります。これらのお店は、単に物を売るだけではない役割を果たしていたんですね。

その点今の、日本のお店の多くは、清潔に個別包装された商品がお行儀よく並んで、単身世帯に便利な少量パック詰めの商品も豊富で、レジに並べば会話をしないでも支払いが済むし、とても便利です。でも、昔の公設市場やヨーロッパの市場で感じた、ワクワクするような高揚感を感じることはできません。 くらし方や生き方にしても、決められたコースを効率よく進む人ばかりが評価されがちですけれど、一見「ムダ」におもえる寄り道で、大事な出会いがあったり、創造性を養えたりします。

ずいぶん昔に読んだ『エネルギーの征服~成熟と喪失の文明史』(新泉社、一九七九年)という本の訳者あとがきに、「いかなる技術革新も集団的な死の危機を内包している」という言葉が紹介されていましたが、そうならないように、効率優先ではなく多様な生き方を認め合えるような社会を、協同組合・生協さんには、ぜひ、めざしていただきたいなと思います。

上掛 私の父も、買い物に行った市場でお店の方と話をするのが楽しみで、そこから元気を得ていました。また、十七代目の道喜を継がれる安里人(ありと)君と私の二男は小学校からの気の合う友達で、水泳が得意でなかった息子がプールの時間を嫌がったとき、当時は泳げなかった安里人君が「別に泳がんでも、プールに入ってたら気持ちいいやん」と誘ってくれたので助かったそうです。このようにゆとりのある対応のおかげで、今は泳げるようになりました。

多様な価値観を認めて、一人ひとりの想いや個性を大切にすることと、京都の人びとが培ってきた伝統の奥深さ、丁寧なくらしをうまく重ねることで、よりよい未来が展望できるのかもしれません。協同組合が、こうした生活文化の向上の面でも、役割を果たすことができると良いなと考えています。本日はありがとうございました。



写真撮影・有田知行


プロフィール:川端 知嘉子 (かわばた ちかこ)氏
「御粽司 川端道喜」代表

略歴
京都市生まれ。京都市立芸術大学日本画専攻科を卒業後、同校非常勤講師を経て、神戸山手女子短期大学(現:神戸山手短期大学)芸術科講師を務める。1986(昭和61)年、御粽司川端道喜十六代と結婚。2000(平成12)年に十六代が病没した後は、画業を続けながら、義母より和菓子作りを習い、十六代代行として、粽や餅、菓子などの伝統的な製法の継承に取り組んでいる。 創画会准会員。池田知嘉子名で画業をおこなっている。